7.江戸から明治へ
荒木 又右衛門 |
「伊賀上野の仇討」で知られる荒木 又右衛門(あらき
またえもん:1599〜1638)は、 はじめ伊賀国に生まれ、本多政朝の家臣である服部平兵衛の養子となりましたが、 28歳頃に養家を離れ、浪人となって伊賀へと戻りました。 その後、大和郡山藩の藩主である松平忠明に召抱えられ、剣術師範役に取り立てられました。 ※この時 剣術師範の上席にいた河合 甚左衛門とは、後に伊賀上野において対決する事となります。 さて その頃、又右衛門の父である平左衛門の同僚であった、岡山藩に仕える渡辺 内蔵助の息子であり 藩主・池田 忠雄の寵童で、美男子として知られた源太夫が、同僚の河合 又五郎から懸想されたものの、 これを拒んだために殺害され、又五郎は江戸へと逃げ、旗本の安藤家へと匿われた事に対し、 忠雄は身柄の引渡しを求めたが、これを拒否されるという事件が起こりました。 当時、兄が弟の仇を討つのは異例の事でしたが、池田侯からの上意討ちの内意もあったために 内蔵助の息子である兄の数馬(かずま)が仇討ちの旅へと出ることになりましたが、既に この時、 内蔵助の息女を嫁に迎えて、数馬の義兄となっていた又右衛門は仇討ちの助太刀を求められましたが、 又右衛門はこれを快諾し、郡山藩を辞して、既に江戸払いとなっていた又五郎を討つべく、 数馬と共に旅立ちました。 そして寛永11年(1634年)11月7日、又右衛門ら一行の4人は、伊賀上野の鍵屋の辻において、 又五郎ら11名と戦い、この内、又五郎をはじめとして、河合 甚左衛門、桜井 半兵衛ら4人を討ち、 見事に仇討ちの本懐を遂げました。 なお、討ち入り後、数馬と又右衛門は客分として伊賀上野藩の藤堂家に保護されていましたが、 忠雄が没した後に、鳥取へと移封されていた池田 光仲より要請があったために、 寛永15年(1638年)8月12日に鳥取に移りましたが、ほどなくして又右衛門は病死し(※)、 数馬も寛永19年(1642年)12月2日に35歳で没しました。(※又右衛門については毒殺説も有ります) |
江戸時代の大和 |
二代広重の揃物「諸国六十八景」に描かれた生駒山(いこまやま)の風景画です。 画中左上に生駒山、下部に「生駒の聖天さん」(※ただし、正確には本尊は不動明王)で 知られる寶山寺が、右上には役行者が修行したとされる般若窟が描かれています。 |
天誅組の乱(大和義挙) |
文久3年(1863年)8月17日、公卿の中山忠光(なかやま
ただみつ)を大将とし、 土佐国の庄屋、吉村寅太郎(よしむら とらたろう)らを総裁とした尊攘派組織である 「天誅組」(これは後に付けられた俗称。寅太郎本人達は「皇軍御先鋒」を以って任じていた)は、 孝明(こうめい)天皇の大和行幸の先駆けとして、幕府天領を治める五條代官所を襲撃し、 代官をはじめとする役人を殺害、天皇の直轄地とする旨、そして「御政府」たる宣言を行いました。 しかし、翌日に京都で起こった会津・薩摩両藩によるクーデター「八月十八日の政変」のため 大和行幸は中止となり、一転して逆賊として幕府の命による近隣諸藩の討伐を受ける事態に陥りました。 このため天誅組は、南部の十津川(とつかわ)へと退却し、 在地の郷士(ごうし:農村などに定住して農業等に従事しながら武士の待遇を受けた身分)ら 900数十名を徴兵し、高取藩と交戦しましたが、戦術の連携の齟齬や、 吉村寅太郎が味方の誤射による銃撃で重傷を負うなどして大敗を喫し、 その後の組織内部の分裂や十津川郷士の離反を受けた結果、9月の末に壊滅しました。 なお、中山忠光は長州へと逃れましたが、匿われた先の長州藩内部の方針転換のために暗殺され、 傷の悪化のため動けなくなっていた吉村寅太郎は、討伐軍の手によって射殺され、討ち死にしました。 しかしながら、この天誅組の挙兵は、結果としては失敗ではあったものの、 その後の武力による討幕運動、ひいては明治維新の導火線となった事件であり、 決して軽視はできない事柄であったといっても過言ではないでしょう。 |
中山忠光(なかやま ただみつ:1845〜1864)は、公卿
中山忠能(ただやす)の七男で、 後に明治天皇となる睦仁親王は甥にあたります。 若年の内から奔放な性格であった忠光は、早くから吉村 寅太郎をはじめとする 尊攘派の志士たちと交わり、文久3年(1863年)には京都を脱して長州へと走り、 官位を返上した上で、久坂玄瑞(くさか げんずい)が率いる光明寺党の党首へと迎えられ、 下関における外航船砲撃にも参加しています。 その後、吉村 寅太郎らと共に天誅組を結成し、総大将となった忠光は、 孝明天皇の大和行幸の詔が出されるや、京を立ち、大和五條の代官所を襲撃しましたが 追討軍との戦いでは、徴兵した十津川勢に対し、兵法を無視して強行軍を強いたり、 また、前線の部隊に無断で陣を引き払い、奥地へと退避するなどといった行動も取りました。 そして、最後の決戦の地となった鷲家(わしか)においては、吉村ら主要メンバーが次々と落命するなか 決死隊に守られた忠光は大坂へと脱出し、長州藩邸に入った後、長州へと落ち延びました。 しかし、元治元年(1864年)の禁門の変や第1次長州征伐を経て、藩内で俗論派が台頭した結果、 同年11月、長州藩の支藩である長府藩領内に潜伏中に暗殺されました。 |
吉村 寅太郎(よしむら
とらたろう:1837〜1863)は、土佐国、檮原(ゆすはら)村の庄屋で、 文久元年(1861年)、武市半平太によって土佐勤皇党が組織されると、いち早くこれに参加しました。 翌年の脱藩後、京の寺田屋に集まった尊攘派に加わったため捕縛され、土佐へと送還されましたが 出獄後に再び脱藩・上京し、尊攘運動に参加する折から中山忠光のもとに出入りするようになり、 旧知の間柄であった、藤本 鉄石(ふじもと てっせき:1816〜1863 元 備前 岡山藩士)や 松本 奎堂(※後述)らと倒幕の挙兵を計画し、天誅組の乱を起こしました。 天誅組においては三総裁の一人として、また組織内におけるオルガナイザーとしても活躍をしましたが、 上記の解説でも述べましたように、東吉野の鷲家(わしか)で無念の戦死を遂げました。 |
松本 奎堂(まつもと けいどう:1831〜1863/通称:謙三郎)は、 三河・刈谷藩士でしたが、後に脱藩して勤皇運動へと身を投じました。 早くから俊英の才を顕し、江戸の昌平坂学問所では塾頭となるほどでしたが、 これ以前より勤皇思想に傾倒していた奎堂は職を辞し、名古屋、大坂で私塾を開きました。 この後、吉村寅太郎や藤本 鉄石らと共に中山忠光を主将として大和五條に挙兵し、 「天誅組」における三総裁の一人として、軍令書や布告などの文書を手掛けるなどしました。 しかし、高取城攻略に失敗して以降、転戦に次ぐ転戦のさなかに栄養の悪化から右目の視力が低下、 これと併せて18歳の時、槍術の稽古の折に左目を失明していたため、ついに盲目となってしまいました。 そして最後には、ただ一人で鷲家の山中に置き去りにされていた所を一斉に銃撃され、 壮絶な最期を遂げました。(※一説には自刃したとも伝えられています) |
伴林 光平(ともばやし みつひら:1813〜1864)は、 天誅組の挙兵に参加した、斑鳩(いかるが)在住の国学者です。 討伐軍のと戦闘においては、当時51歳の老齢とは思えぬ活躍ぶりを発揮するも 利無くして敗れ、潜行途中で奈良奉行所に捕縛されました。 翌、元冶元年(1864年)、京都六角獄にて同士20余名と共に処刑されました。 和歌を良くし、挙兵を記録した「南山踏雲録」が著名です。 |
明治時代の大和 |
明治時代に入ってからの奈良を描いた風景画です。 なお、図では猿沢の池越しに望む興福寺と「朝日山」の遠景が描かれていますが 現在の地図では「朝日山」という名の山は出ていません。春日山、もしくは若草山の誤りでしょうか? また、いかにも明治時代の浮世絵らしく、左端には人力車の姿も見えます。 |
現在は奈良市内に編入された、旧・月ヶ瀬村(添上郡)の風景を描いています。 手前には名張川が流れ、その奥に月ヶ瀬の名所である梅林を配した、静かな夜の光景です。 |
奈良・大和の産物 |
吉野葛 |
古来より大和を代表する産物といえば、筆や墨、奈良晒(さらし)、赤膚焼などが有名ですが その中のひとつに、県の南部で精製される葛粉(くずこ)があります。 葛粉は、山野に自生する「葛」(マメ科)の根から採ったデンプンを精製して作る食用粉で、 菓子の材料や料理のとろみ付けをはじめとして様々な用途に使用されますが、これに加え 風邪薬の「葛根湯(かっこんとう)」でも知られるように、体を温めるなどの薬効もあります。 葛粉を製造するにあたっては非常な手間がかかりますが、製造方法は概ね下記の通りとなっています。 1.クズの根を繊維状に粉砕する。 2.真水をかけ洗い、その絞り汁をためて、葛を沈殿させる 3.上水を取り、真水を入れて攪拌し、浮かし取りをして、不純物を取り除き、良質な部分だけを取り出す。 4.さらにアク抜きの為に、葛に真水を入れて攪拌し、沈殿させ、上水を捨てる。 5.これを何回も繰り返した後、日陰干しで乾燥させて製品とする。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による) また、葛粉の生産地に関しては、吉野町以外では宇陀市の大宇陀(おおうだ)でも生産がされていますが、 これらを総称して「吉野葛」と言います。 なお、このシリーズは、本来ならば上下を裁断して1枚ずつの形式で販売したものですが、 この作品に関しては、何らかの理由により、それがなされずに未裁断のままで残ったものです。 |