6.戦国の世
松永 久秀 |
松永久秀(まつなが ひさひで:?〜1577)は、元は三好長慶(みよし
ながよし)の家臣で、 永録8年(1565年)に三好義継と共謀し、室町幕府第13代将軍の足利義輝を殺害し、 永録10年(1567年)には、三好党との交戦の際に、敵軍の陣取っていた東大寺大仏殿を焼き討ちしました。 後に織田信長に属すも離反・交戦し、天正5年(1577年)に居城の信貴城を攻められ、 信長から「それを差し出せば助命する」と言われた秘蔵の茶道具「「平蜘蛛の釜」に火薬を詰め、 自ら火を点じ、壮絶な爆死を遂げました。 |
筒井 順慶 |
筒井順慶(つつい じゅんけい:1549〜84)は、当初、興福寺の宗徒でしたが後に還俗しました。 初め松永久秀と対抗していましたが、信長に属し、久秀滅亡により大和一国を領知し、郡山城主となりました。 後の本能寺の変には、一時、明智光秀に与するも、最終的には秀吉に属しました。 なお、有名な洞ヶ峠(ほらがとうげ)の逸話は誤りで、実際には順慶は洞ヶ峠には出陣しておらず、 逆に光秀が順慶の出陣を促すために出張ったというのが実際の話です。 |
島 左近 |
島 左近(しま さこん:?〜1600)は、大和国
平群(へぐり)の国人(こくじん:在地の武士)で、 筒井家の家老を勤め、同じく筒井家の家臣である松倉右近と並び「筒井の左近右近」と称されました。 後に筒井家を去り、豊臣 秀長(はしば ひでなが)に仕え、 嗣子の秀保(ひでやす)が死去した後には石田光成に招かれ、高禄を以って遇されました。 関ヶ原の合戦には岐阜へ出動し、中川一栄(なかがわ かずひで)を破りましたが、 その後の本戦において戦死したとされています。 ※芳幾の「太平記英勇傳」の図は、美濃国 大垣城において妖怪を退治したという逸話を描いています。 |
豊臣 秀長 |
豊臣秀長(とよとみ ひでなが:?〜1591)は、秀吉の父である木下
弥右衛門(やえもん)の死後に 未亡人(後の大政所:おおまんどころ)と、後夫 筑阿弥(ちくあみ)の間に生まれた異父弟です。 天正13年(1585年)、順慶の後を継いでいた筒井定次(つつい さだつぐ)が伊賀へと転封された後に 大和郡山へと入部し、大和、紀伊、和泉、並びに伊賀の一部を領しました。 秀長は、入部に際して多武峰(とうのみね)を始めとする寺院の僧兵から武器の提出をさせることにより 寺院の勢力を削ぎ、また、興福寺をはじめとする寺社と奈良の民衆との旧来よりの結びつきを断つため、 入国早々に、郡山と奈良以外の地域において市を立てる事や酒造の禁止を国中に命じ、 後には奈良の市中においての商業行為自体を一切禁止させ、売買は郡山でのみ許可とし、 郡山城下を奈良にかわる大和の経済の中心地にしようと試みました。 なお、これと並んで各寺社に対しては、寺社領の石高を申告する差出検地(さしだしけんち)を命じ、 過大に報告した寺社には、申告に対する厳しい査定を行い、大幅な削減を加えました。 後に秀長は従三位より中納言を経て権大納言へと昇進し、 このために「大和大納言」(やまとだいなごん)と称されましたが、小田原の役の後に病を得て死去しました。 |
平野 長泰 |
平野 長泰(ひらの ながやす:1559〜1628)は、秀吉の家人であった平野
長治(ながはる)の子です。 若年より秀吉に仕えましたが、天正11年(1583年)の賎ヶ岳の合戦においては「賎ヶ岳七本槍」として 功を上げ、賞として三千石を与えられました。 更に文禄4年(1595年)の加増により、 十市郡 田原本(たわらもと:【現在の磯城郡 田原本町 田原本】)五千石を所領として与えられました。 その後、関が原の合戦の際には東軍に属し、徳川秀忠の下で旗本として仕えましたが、 大坂の陣においては、家康に対して大坂城への入城を述べたものの許されず、 留守居役を命じられ、江戸へと留め置かれました。 なお、長泰の死後、平野家は後を継いだ長勝を合わせて9代続き、田原本の領主として存続しましたが、 明治維新の際、新政府の意向により田原本藩1万石として立藩し、正式な大名として諸侯に列しましたが、 その後の廃藩置県により3年余りで消滅しました。 |
片桐 且元 |
片桐 且元(かたぎり かつもと:1556〜1615)は、浅井長政(あざい
ながまさ)に仕えた 片桐 直貞(なおさだ)の長男として生まれ、浅井家滅亡後は、羽柴 秀吉の家臣として仕えました。 天正11年(1583年)の賎ヶ岳の合戦では、加藤 清正(かとう きよまさ)や福島 正則(ふくしま まさのり)らと 並んで活躍し、「賎ヶ岳七本槍」の一人に数えられました。 秀吉の死後は、秀頼(ひでより)を補佐し、関が原の合戦の後の論功行賞では、 家康より大和国 龍田(現在の生駒郡 斑鳩町 竜田)に二万八千石の所領を与えられました。 ※この所領が、後の竜田藩(承応4年:1655年に廃藩)の元となります。 その後は、豊臣家と徳川家の対立を避けるために仲介役として奔走する立場にあった且元でしたが、 慶長19年(1614年)、方広寺梵鐘の鐘銘問題が起こると、戦争回避のために家康と交渉しましたが、 淀殿(よど どの:秀頼の生母)や大野 治長(おおの はるなが)等から、家康との内通を疑われたために、 大坂城を退去し、大坂の陣においては家康に味方したため、戦後には更に四万石への加増を受けました。 しかし、夏の陣が終結した直後に且元は急死し、子の孝利(たかとし)が後を継ぎました。 |