4.源平の盛衰

滝口入道と横笛

 

歌川芳虎:
【齋藤 瀧口 時頼】
【雑司 横笛】
文久〜慶応頃か(1861〜68年)
小判錦絵2枚組
※元来は版本だったものが
後にバラされたものです

治承四年(1180年)、平重盛の家臣である斎藤 時頼は、御所の滝口の警衛にあたる侍でしたが、
建礼門院の雑司女(ぞうしめ:下級の女官)である横笛(よこぶえ)と恋に落ちました。

しかし、時頼の父である茂頼(もちより)が反対をしたため
「自分の気に染まぬ女性を妻にする気は無いし、かと言って愛する女をと思えば
父上の命に背き、結果として人倫にもとるので、出家して仏道に救いを求めます」
と、京都は嵯峨野にある往生院に入ってしまいました。

それを聞いた横笛は往生院を訪ねますが、時頼の決心は固く、決して会おうとはしませんでした。
横笛はむなしく都へと帰ることなり、更に、時頼は女人禁制である高野山へと上ってしまいました。

その後、横笛も出家し奈良の法華寺へと入りましたが、悲しみが募り、まもなくして亡くなりました。
なお、現在も法華寺の脇には、横笛が住んだと伝えられる「横笛堂」が残っています。

なお、この話は平家物語に記されているものですが、「源平盛衰記」においては、
掲載の横笛の画中の詞書にあるように、桂川の上流にある千鳥ヶ淵で入水を遂げたとされています。

源 義経と吉野山

歌川貞秀:
「大和国吉野山雪中源義経一山衆徒合戦図」
天保ごろ(1830〜44年)
大判錦絵3枚続き

兄、頼朝との不和から追討軍を差し向けられた源 義経(みなもとのよしつね:1159〜1189)は、
文治元年(1185年)11月、西国へ渡り兵を集めるべく摂津国(現:大阪府)の
大物の浦から出航するも暴風雨のために船は難破し、再び摂津に吹き戻されてしまいました。

そして、摂津の住吉から吉野山へと落ち延びた義経一行でしたが、
吉野の寺院の宗徒は頼朝への忠節から義経を攻めることになりました。
歌川豊国(3代目):「古今名婦伝」
静御前
文久元年(1861年)
大判錦絵
この時、義経の愛妾であった静御前は、一行と別れて京へと向かう事になりましたが、
その途中に、同行していた従者が逃げ、一人で山中を彷徨っていたところを
吉野山の宗徒らにより囚われの身となり、京都の北条時政へと引き渡され、
尋問の後に、母の磯野禅尼と共に鎌倉へと送られました。

そして、鎌倉では再び尋問を受けた後に、頼朝と、妻の北条政子が鶴岡八幡宮に参拝の折に
頼朝から舞を行うように命じられ、社前において白拍子の舞を演じました。

しかし静は、

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

吉野山
峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

と、あえて義経を慕う歌を歌ったために、頼朝を激怒させる事態となりましたが、
これに対し政子が必至に取り成しをしたために一命を助けられる事となりました。

なお、この時 静は義経の子を身篭っていましたが、4ヶ月余りの後に出産した赤子は
男児だったために由比ガ浜へと沈められて殺され、静と磯野禅尼は京へ帰されました。

その後の静の余生については不明な点が多く、自殺説や旅先で客死した説など諸説がありますが、
大和高田市の磯野は、磯野禅尼の里であり、そこへ戻って生涯を終えたという説もあります。
歌川芳員:「忠信吉野山ニ忠戦ノ図」
安政5年(1858年)
大判錦絵3枚続き
さて、義経一行が静御前と別れた後、義経の家臣であった佐藤 忠信(さとう ただのぶ)は、
主人である義経達を無事を落ち延びさせるため身代わりとなるべく、義経の甲冑を身にまとい、
ひとり吉野山に留まり、横川覚範(よかわのかくはん)をはじめとする僧兵たちと戦いますが、
ついに五重塔へと追い込まれてしまいます。

進退窮まった忠信でしたが、塔の壁を蹴破って脱出することに成功し、みごと窮地を脱したのでした。

大仏復興と源頼朝


歌川国芳:「智勇六佳選」     
右大将 源頼朝 卿 
嘉永ごろ(1848〜54年)
大判錦絵

治承四年(1180年)12月28日、平重衡(たいらのしげひら)による南都焼き討ちにより、
市中の大半が炎上、焼失、東大寺や興福寺が ほぼ全焼し、どうにか類焼を免れたのは
元興寺や新薬師寺といった市街地の南部周辺のみという大損害を被りました。

これに伴い、焼失した東大寺の大仏を再建するために、僧・重源(ちょうげん:1121〜1206)は、

後白河法皇や源頼朝をはじめとする、皇族や貴族、諸国の武士達などの多くの人々から勧進を募り、
鋳造に必要な外来の技術の導入や、大仏殿に使用する用材の調達といった多くの問題を乗り越え、
文治元年(1185年)8月に開眼供養が行われました。

そして焼き討ちから15年後の建久六年(1195年)3月、大仏殿の落慶法要が執り行われましたが、
はるばる鎌倉から上洛した頼朝は、馬1000疋、米1000石、黄金1000両、上絹1000疋といった
多くの寄付を行い、儀式へと臨みました。

平 景清 伝説

歌川国芳:「耀武八景」     
東大寺晩鐘 悪七兵衛景清 
嘉永5年(1852年)
大判錦絵

歌川貞秀:【景清大仏殿に奮戦の図】(仮称)    
弘化ごろ(1844〜48年)
大判錦絵3枚続き


歌川国芳:【上総七兵衛景清】
安政5年(1858年)
大判錦絵3枚続き
平家の侍大将であった平 景清(たいらのかげきよ:?〜1196)は、
壇ノ浦の合戦の後も生き延び、文治元年(1185年)、平重盛の子の忠房が
紀伊国で挙兵した時に兄の忠光らとともにこれに参画したものの、
忠房が降伏するに及び、そこからも姿を消し、以後10年近い潜伏生活を送った後、
ついに鎌倉へ自首し、身柄を預けられた先の八田知家において飲食を絶って死去したとされています。

なお、謡曲「大仏供養」などでは、景清は、頼朝による東大寺の大仏供養の折に、
警護の僧兵に紛れて頼朝を暗殺しようとするも、畠山重忠(はたけやま しげただ)に見咎められ
失敗に終わるというストーリーが展開されますが、これがビデオゲーム「源平討魔伝」(ナムコ)の
モデルとなったと思われますが、いかがなものでしょうか。

余談ですが、東大寺の西側にある転害門(てがいもん:国宝)は、
東大寺の建造物の中で、奈良時代の姿を残す唯一の遺構として知られていますが、
景清が頼朝を狙った折に身を潜めたという伝説から、一名を「景清門」とも言われています。

 

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