5.南北朝の動乱
後醍醐天皇と元弘の乱 |
後醍醐天皇(ごだいごてんのう:1288〜1339)は、かつての天皇親政の世を再来させるべく 「正中の変」(1324年)、「元弘の乱」(1331年)と2度に渡って倒幕の計画を立てましたが、 いずれも近臣の密告のため失敗し、2度目の「元弘の乱」の時には、 京の都から山城・大和の境に位置する笠置山へと逃れ山中に立て篭もりましたが、 20万もの幕府軍に攻撃されあえなく落城します。 その後、落ち延びた後醍醐天皇は、翌年(1332年)に鎌倉幕府に捕縛され隠岐島へと流されました。 |
護良親王 |
大塔宮(おおとうのみや。「だいとうのみや」とも)護良(もりよし「もりなが」とも)親王(1308〜1335)は、 後醍醐天皇の第三皇子で、10歳で比叡山延暦寺に入り、19歳で落飾(らくしょく:髪を落として僧となる事)して 尊雲法親王と号し、のちには天台座主(てんだい ざす)となりました。 後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げると、還俗(げんぞく:僧籍から俗体に戻る事)してこれに参戦し、 「元弘の乱」(1331年)においては吉野へと逃れますが、 天台座主という自身の宗教的地位を通じて吉野を初めとして大峰山や高野山、熊野の宗教勢力を味方に付け、 また全国の有力武士に倒幕の挙兵を促す令旨(りょうじ:皇太子の命令を伝える文書)を送るなどして、 2年にわたる幕府方との戦いの末に京の六波羅探題を滅ぼしました。 鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇が行った「建武の親政」においては征夷大将軍に任命されましたが、 後醍醐天皇との不和や足利尊氏らとの反目が原因となり、職を解かれた上に建武元年(1334年)、 皇位を簒奪しようとしたという罪により鎌倉へと送られ 尊氏の弟である足利直義(あしかが なおよし)の監視下の元に幽閉され、 翌年起こった「中先代(なかせんだい)の乱」の際、直義の家臣の手によって殺害されました。 ※上掲の作品の内、「魁題百撰相」は、幕末の戊辰戦争における彰義隊及び 奥羽戦争などに関連する人物を南北朝〜江戸時代初期の武家等に仮託して描いた見立て絵であり、 この場合の大塔宮は、上野寛永寺の門主であった輪王寺宮(りんのうじのみや)公現法親王を表しています。 |
元弘3年 (1333年)2月18日、
吉野に立て籠もった護良親王の軍に対して幕府軍の総攻撃が開始され 七昼夜にわたる戦闘が繰り広げられましたが、守りが非常に堅固なため、寄せ手の軍勢もこれを陥落させる 事が出来ないでいたところ、幕府方に付いた金峰山(きんぷせん)寺の長官であった岩菊丸(いわぎくまる)が 伏兵を用いて城の内部からの突き崩しを計り、前後に敵を受けた親王の軍は総崩れになりました。 親王は自ら押し寄せる幕府軍と戦いましたが、親王一行の奮戦に、寄せ手は一旦兵を退くに至りました。 そこで親王は、蔵王堂の前の広場に臣下の一同を集め、満身創痍のまま、最後の酒宴を開きました。 図は、この時に、一行の内より小寺相模(こでら さがみ)という家臣が進み出で、太刀を振りかざしながら 舞を披露し、拍子を取って謡(うたい)を謡ったという逸話を描いたものです。 |
村上義光 |
村上 義光(むらかみ よしてる:?〜1333)は、信濃村上氏の出身で、 元弘の乱において、護良親王に付き従った忠臣として知られています。 南都(奈良)から親王が熊野へと逃れる際、現在の十津川村にある芋瀬(いもせ)を通過しようとした時に 折から北朝方に与そうと考えていた、その地の長である芋瀬の庄司(しょうじ)より 「ここを通りたくば、錦の御旗か、もしくは家臣のいずれかを人質として置いていくかのどちらかを選べ」 と迫られた親王は、一人でも人材を失うのは痛いと考え、やむなく錦旗を庄司の一党に渡して通りました。 しばらくして、親王の一行に遅れながらも後を追ってきた義光が芋瀬へと差し掛かると、 錦旗を持って戻ってきた庄司らの一党を見て、不審に思ったため仔細を問い質しました。 すると事情を知った義光は激怒し、庄司の郎党達を打ち倒して錦旗を奪い返し、 義光の強力に恐れをなして引き下がった庄司を尻目に、ほどなく親王の一行へと合流を果たしました。 そして、その後の吉野山の合戦においては、敗色が濃厚となると、親王を逃すために仁王門の上へと登り 堂上より大音声で我は親王であると偽って名乗り、自ら身代わりとなって切腹し、壮絶な最後を遂げました。 |
伊賀の局 |
伊賀の局は、新田義貞(にったよしさだ)の四天王の一人、篠塚伊賀守(しのづか
いがのかみ)の娘で、 後醍醐天皇の寵姫である新待賢門院(しんたいけんもんいん)に仕えた女官です。 のちに女官を辞し、楠正儀(くすのき まさのり:?〜1389? 楠正成の三男)に嫁いだといわれています。 正平2年(1347年)の春より、吉野の内裏には さまざまな怪異が起こり、 廷臣を初めとする人々はこれに恐れ戦いていました。 ある夏の夜のこと、局は、ふと庭に涼みに降り、戯れに 涼しさを まつ吹く風に わすられて 袂に宿す よはの月かげ と詠じたところ、後ろより乾びた声がしたので何事かと振り返ると、 そこには、かつての後醍醐天皇の廷臣で既に死去していた 坊門清忠(ぼうもん きよただ:?〜1338)の亡霊がおり、 これまでの怪異は自分の起こした事であると述べ、勅勘を被ったまま死んだ我が身に対して、 是非とも赦しを請うために現れたのであると言うのに対し、 局は少しも恐れることなくこれを諭し退けたのでした。 なお、左上のコマ絵は、高師直が吉野の皇居を襲撃した際、 山中へと逃げ延びる途中で松の大きな枝を折って橋としたという場面です。 また、このエピソードが収録されている原典の「吉野拾遺」では、 |
楠木 正行 |
楠木 正行(くすのき
まさつら:1326〜1348)は、楠木正成(くすのき
まさしげ)の嫡男です。 |
吉野の陥落 |
正平3年(1348年)の正月28日、高師直、師泰兄弟は 吉野に軍勢を進め、南朝方の皇居を襲撃し、焼き討ちを行いました。 この時、後醍醐天皇の後を継ぎ、南朝第二代目の天皇となっていた 後村上天皇(ごむらかみてんのう:1328〜1368)は、既に より奥地の賀名生(あのう)に 逃れていたために事なきを得ましたが、吉野の堂塔はすべて灰燼に帰したと伝えられています。 なお、図では楠木 正行が、吉野の宗徒と共にこれを迎え撃ち、 八門遁甲の陣を敷いてこれを敗走させたとありますが、正史においては、 前述の通り、正行はこの直前(5日)の四条畷の合戦において自害していますので、 この点に関しては、史実とは明らかに異なります。 |