3.奈良の都

猿沢の池と采女の伝説

尾形月耕:「大和物語」
猿沢の池
明治30年(1897年)
大判錦絵

奈良に都があったころ、時の天皇に使える、
ある一人の采女(うねめ:天皇の身の回りの世話をする女性)がいました。
はじめの内は天皇の覚えも浅くはありませんでしたが、いつしか、その寵愛も薄れ、
その身をはかなんだ采女は猿沢の池に身を投げ入水をしました。

その事を聞き及んだ天皇は、采女の霊を慰めるべく猿沢の池のほとりに行幸し、
供の人たちに歌を詠ませました。
その中で、柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)が

わぎもこが ねくたれ髪を 猿沢の 池の玉藻と みるぞかなしき

(あの可愛い娘の寝乱れ髪を、猿沢の池の水草と見間違うような形で
見なければならないのは、まことに悲しいことである)

と詠み、天皇はこれに合わせて

猿沢の 池もつらしな わぎもこが たまも被(かず)かば 水ぞひまなし

(猿沢の池は恨めしいことよ、愛しいあの娘が身を投げて、
池の水草が彼女に絡んだならば、池の水など干上がればよかったものを)

と詠まれ、池の西北に社殿を建立し、「采女神社」としてこれを祀ったのでした。

良弁僧正

歌川豊国(3代目)
歌川広重(2代目)

観音霊験記
西国順禮十三番 江州 石山寺
良辧
僧正
安政5年(1858年)
大判錦絵

良弁(ろうべん:689〜774)は、東大寺を開山した華厳宗の僧侶で、のちに初代の別当となりました。

伝説では、2歳のときに両親が野良仕事をしていた際に、戸外で大鷲にさらわれた後に、
大鷲が春日大社の木で羽を休めた際にそこから落とされ、枝に引っかかっていたところを
通りかかった僧、義淵(ぎえん)によって助けられ、彼の手で育てられたとされています。

図は、良弁が建立した近江(おうみ:現滋賀県)の石山寺(いしやまでら)創建にまつわるエピソードです。

聖武天皇(しょうむてんのう)の勅命を受けた良弁は、大仏建立に使うための黄金を得るために
当時、山の全てが黄金で出来ていると信じられていた吉野の金峰山(きんぷせん)を掘るにあたり、
蔵王権現(ざおうごんげん)に祈念しましたが、霊夢の内に現れた蔵王権現は
「この山の黄金は、弥勒菩薩が世に出るにあたってこそ使われるべきであり、
人間が欲しいままに採る事は許されぬ事である。
その代わり、近江の国の勢田に如意輪観音(にょいりんかんのん)の座す霊地があるので、
そこに赴き祈念するがよい。」
との託宣を与えました。

そこで良弁が、早速、勢田に赴いたところ、岩の上で釣り糸を垂れていた老人がいたので
その老人に向かい貴方は何者であるかと問うたところ、老人は、
「私は比良(ひら)の山の主(ぬし)たる神であるが、如何にもこの地は観音の霊地である。」
と述べて姿を消しました。

そして、その場所に庵を立てて如意輪観音の尊象を自ら刻んだところ、
ほどなくして、奥州で黄金が発見され、都へと献納されるに至ったのでした。

藤井安基

歌川豊国(3代目)
歌川広重(2代目)

観音霊験記
西国順禮第五番 河内 藤井寺
藤井安基
安政5年(1858年)
大判錦絵

大阪府の藤井寺市にある葛井寺(ふじいでら)の創建に関するエピソードを描いた作品です。

賀留(かる:軽 現在の橿原市の一部)の里に住む藤井安基(ふじい やすもと)は
性は放埓で、自分勝手な行いをする事を何とも思わないような人物でした。

ある時、河内(かわち:現在の大阪府中部)の平石の辺りにおいて鹿を狩った際に、山中にあった仏堂に入り、
堂内にあった仏具を俎板代わりにし、そして焚き木として燃やして鹿の肉を煮て食べたところ、
安基は、にわかに頓死し、そして獄卒の引く火の車に乗せられて地獄へと落とされ、
地獄の責め苦を受ける事態へと陥りました。

そんな中、責め苦を受ける安基の前に、一人の童子が現れ、彼を救おうとしました。
獄卒達は仏道を汚した逆罪の者を逃す事は出来ないと遮ろうとしますが、童子は、
「確かに彼は罪人ではあるが、かつて私の住む長谷寺(はせでら)を再建する際に
建物に使う材木を曳いたという善根がある。よって速やかに現世に戻すものである。」
と言い、その言葉を聞いた安基は、瞬く間に生き返ったのでした。

このような事があって改心した安基は、奈良の都に登り、行基(ぎょうき)の弟子となり、
長谷観音を刻んだ霊木の余材で観音の尊像を作った事が聖武天皇の耳に達し、
これにより、尊像を本尊として行基に一寺を建立させましたが、安基の因縁譚から
藤井寺と称するようになったと言われています。

なお、葛井寺の寺伝では、神亀2年(725年)に聖武天皇の勅願により建立され、
行基を導師として開眼させた千手観音を本尊としたという事となっています。

また、安基自身は、奈良時代よりもずっと後の平安時代の永長元年(1096年)に、
荒れ果てていた葛井寺を復興させたと伝えられていますので、この場合は霊験譚を
強調させるための付会ということになると思われます。

光明皇后

歌川国芳:「木曽街道六十九次之内:赤坂」
光明皇后
嘉永5年(1852年)
大判錦絵

光明皇后(こうみょうこうごう:701〜760)は、藤原不比等の娘として生まれ、
後に聖武天皇の皇后となりました。また、孝謙天皇(後に再び即位して称徳天皇となる)の母でもあります。

皇后は仏教に篤く帰依をし、夫である聖武天皇に、東大寺、及び国分寺の建立を進言し、
また、貧民に対して施しをするための「悲田院」や医療施設である「」施薬院」を設置し、慈善活動を行いました。

なお、聖武天皇と共に、奈良時代を代表する能書家としても知られ、天皇の死後に東大寺へと寄進した遺品は
後に正倉院へと納められる事になりました。

本図は、皇后が法華寺に建立した浴場において、人々を沐浴させ、みずから千人の垢を洗う事を誓願したところ、
千人目に来た重度の皮膚病患者(ハンセン病との説もあります)が、体から流れる膿を吸い出すよう要望しました。
そこで皇后が、男の垢を擦り、要望どおりに膿を口で吸い出したところ、男は体から光を放ち、たちまちの内に
阿?如来(あしゅくにょらい)の本体を現して消え去ったという説話を描いたものです。
国芳による当「木曽街道六十九次之内」は、宿駅名から連想される人物や事件を描いたもので、
画面上部に、画題に関連する内容をコマ絵の枠線にして、内部に宿場の風景を描いています。

なお、宿場名と画題の関連は、赤坂の「赤」を、光明皇后が擦る、患者の「垢」に掛けたものであり、
コマ絵の外形が蓮の花弁となっているのは、真の姿を現した如来からの連想であると思われます。

阿倍 仲麻呂

豊原国周:「梅幸百種之内」
阿倍仲麿 吉備大臣
明治26年(1893年)
大判錦絵

百人一首の和歌で有名な、阿倍仲麻呂(あべの なかまろ:698〜770)は、
奈良時代の遣唐留学生です。

霊亀3年(717年)に遣唐使に同行して唐の長安に留学し
科挙の試験に合格し唐朝の官吏となり、玄宗皇帝の下に仕えました。

752年、入唐した遣唐使一行とともに帰国を図るも、暴風雨のために安南(ベトナム)へと漂着し、
ようやく本国へと帰還したものの、755年に勃発した安録山の乱のために帰国を断念し、
再び唐にて官途に就き、ついに日本に帰国できぬまま死去しました。

(作品は、歌舞伎役者 五世 尾上梅幸(おのえばいこう)による役者見立て絵です。
なお、左上は仲麻呂と同時に渡唐した吉備真備です。)

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも (古今集)

吉備 真備

楊洲周延:「東錦画夜競」
吉備大臣
明治19年(1886年)
大判錦絵

吉備真備(きびのまきび:695〜775)は、現在の岡山県に勢力を持っていた豪族、
吉備氏の一族の下道氏の出身です。

阿倍仲麻呂と同じく、遣唐留学生として霊亀3年(717年)に唐に渡り、18年もの間、彼の地に留まりました。
天平7年(735年)に帰国し、唐より持ち帰った多くの典籍を聖武天皇(しょうむてんのう)に献上し、
天皇・光明皇后(こうみょうこうごう)より寵愛を受け昇進を重ねました。

天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり再び唐に渡り、
同5年(753)年には、僧・鑑真(がんじん)を伴い帰国し、数々の官位を歴任しました。

天平宝字8年(764年)、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の起こした乱の際には
追討軍を指揮し鎮圧に功を上げ、参議に任命され、
後に、称徳天皇(しょうとくてんのう)の信任の厚い弓削道鏡(ゆげのどうきょう:?〜772)が法王に就任すると、
これに伴い右大臣に昇進しましたが、これは地方豪族からの昇進としては、破格の出世でした。

神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩じた際の後継者争いでは、
長屋王(ながやのおう)の子である文屋浄三と文屋大市を推しましたがこれに敗れ、
老齢を理由に職を辞した後、宝亀6年(775年)に死去しました。

図は、唐へ渡った真備が典籍とともに刺繍の技術を日本へ伝えたのち、
宮中に縫殿(ぬいでん)を建て、官女達に技術を習得させ
刺繍の品質の向上に貢献したという話に基づいたものです。
(左上のコマ絵は、同じく唐へ渡った阿倍仲麻呂です。)

四比信紗


月岡芳年:「四比信紗の貞」
明治17年(1884年)
※和本「修身錦絵談」口絵

宇智郡(現:五条市)に住む四比信紗(しひのしなさ)は、
氏 果安(うじのはたやす)の妻で、舅姑に仕えて孝行し、
夫の死後には、妾の子も含め8人の幼子を分け隔てなく養育したとして、
和銅7年(714年)11月に終身課役を免除されたと伝えられます。(「続日本紀」による)

中将姫伝説

歌川国芳:「本朝二十四孝」
中将姫
弘化頃(1844〜48年)
中判錦絵

歌川芳虎:
【横佩右大臣豊成】
【中将姫】
文久〜慶応頃か
(1861〜68年)
小判錦絵2枚組
※元来は版本だったものが
後にバラされたものです
楊洲周延:「雪月花」
大和:歌比子 照日前 中将姫
明治17年(1884年)
大判錦絵

月岡芳年:「皇国二十四功」
當麻寺の中将媛
明治20年(1887年)
大判錦絵
天平勝宝(749〜757)の頃、藤原不比等(ふじわらのふひと)の孫に当たる
藤原豊成(とよなり)の娘に「中将姫(ちゅうじょうひめ)」という少女がいました。
父母の寵愛を一心に受けて育った姫でしたが、3歳の時に母が他界したため、
豊成は照夜の前(てるよのまえ)を後妻に迎えました。

しかし、継母となった照夜の前は、心根の良くない女性だったために姫を非常に憎み、
何かにつけて邪険に扱いましたが、姫は露ほども背くことなく実の母のように従いました。
業を煮やした照夜の前は、姫を殺そうと企み、豊成が諸国巡視の旅に出たのを好機とばかりに、
家臣に姫を殺すよう命じます。

殺害を命じられた家臣は、紀伊国の雲雀山まで姫を連れ出しましたが、
日頃より念仏にいそしみ、亡き母の供養を怠らない心優しい中将姫を殺すことができず、
照夜の前の命に背く決心をし、雲雀山で姫や都から呼び寄せた妻と共に隠れ住む事にしました。

数年ののち、姫は狩りのために雲雀山へと分け入った豊成と再会し、父に伴われて都へと戻りました。
その知らせを聞いた帝(みかど)は、姫を宮中に召し入れようとしましたが、
若年にして既に世の無常を悟っていた姫はこれを辞退し、二上山の麓にある当麻寺(たいまでら)に入り、
16歳で出家しました。

仏の道に入った姫は、称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)一千巻を書写した後、
阿弥陀如来と観音菩薩の化身の助力により当麻曼荼羅を織り上げました。
それから13年の後、一心に仏道に精進した姫は宝亀6年(775年)、29歳で往生したとされています。

なお、「雪月花」は継母らに折檻される中将姫を描いたものですが、衣装や風俗は当世風に描かれています。
恐らくは、歌舞伎の
「庚鳥山姫捨松(ひばりやまひめすてまつ」(「中将姫古跡の松」とも言う)の
「雪責めの場」からの取材かと思われます。

坂上 刈田麻呂

月岡芳年:「大日本名将鑑」
坂上刈田麻呂 訓儒麿
明治13年(1880年)
大判錦絵

坂上苅田麻呂(さかのうえの かりたまろ:727〜786)は、
後漢の霊帝の流れを汲むという渡来人の家系の出身の武官です。
なお、征夷大将軍として有名な、坂上 田村麻呂(さかのうえのたむらまろ:758〜811)の父でもあります。

天平宝字8年(764年)に、藤原仲麻呂(のち改名して恵美押勝:えみのおしかつ)が
謀反を起こした際に(藤原仲麻呂の乱)、皇権の発動に必要な玉璽(ぎょくじ)と
駅鈴(えきれい:中央政府と地方の連絡に使用された鈴)を奪取しようとした
仲麻呂の子の訓儒麻呂(くんじゅまろ)を射殺しました。
※このあと仲麻呂は敗走し、近江で捕らえられ死罪に処せられました。

また、宝亀元年(770年)の称徳天皇の崩御の際には、道鏡の排斥を光仁天皇(こうにんてんのう)に奏上し、
下野国(現在の群馬県)の薬師寺別当へと左遷させ、その功績として陸奥国の鎮守府将軍に任命されました。

和気 清麻呂

月岡芳年:「皇国二十四功」
和氣清麻呂公
明治14年(1881年)
大判錦絵

和気 清麻呂(わけの きよまろ:733〜799)は、備前国(現在の岡山県東部)岡野郡に生まれ、
若くして都に上がり、近衛府の武官として朝廷に仕えました。

先に都に上がり、采女となっていた姉の広虫(ひろむし:730〜799 後に出家して法均尼:ほうきんに)が
孝謙(こうけん)天皇の厚い信任を得ていたことから、清麻呂も異例の出世を遂げていきました。

神護景雲3年(769年)、当時、
藤原仲麻呂の乱の後に仲麻呂と繋がりのあった淳仁(じゅんにん)天皇を廃し、
一旦は上皇となっていた孝謙天皇が再び即位し、称徳(しょうとく)天皇となっていましたが、天皇の元で、
法王として権勢を振るっていた僧・弓削 道鏡(ゆげの どうきょう:700?〜772)に対し、大宰府より
「道鏡を皇位につければ天下は太平になる」という、豊前(現在の大分県北部)の宇佐神宮からの神託が
あったという事を奏上されました。(なお、当時の大宰府の長官は、道鏡の弟である弓削浄人でした。)

これに対し、事の真偽を確かめるべく、法均尼が宇佐へ派遣される事となりましたが、
法均尼自身は、虚弱な自分の体では、とてもではないが長旅には耐えられないとして辞退し
代わって清麻呂が勅使として参拝することになりました。

宇佐神宮に参宮し、神前にぬかずく清麻呂に対し、一度は先に述べられていたものと同じく
「道鏡を皇位につけよ」という託宣が下されましたが、清麻呂がさらに祈り続けると、今度は新たに
「我が国は、開闢以来 君臣が定まっており、道鏡のような皇族にあらざる者を皇位につけてはならない」
という神託が下されました。

都に帰った清麻呂は、この事を奏上しましたが、既に道鏡を天皇の位につける事を欲していた
称徳天皇から激しい怒りを買い、神託を偽った罪として、名を「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と
改名させられ大隅国(現在の鹿児島県東部)へと配流され、これと連座して法均尼も強制的に還俗させられ
「別部狭虫」(わけべのさむし)と改名させられて備後国(現在の広島県東部)へと流されました。

しかし、宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御し光仁天皇が即位すると、後ろ盾を失った道鏡は
下野国の薬師寺の別当へと左遷され、代わりに罪を許された清麻呂と広虫は都に帰還を果たしました。

そして、光仁天皇の次に即位した桓武(かんむ)天皇の代になると、
清麻呂は摂津大夫(せっつだいぶ)に抜擢され、機内の要衝である難波(なにわ)を治める役に就きました。

この後、清麻呂は桓武天皇に対し、長岡京から平安京への遷都を勧め、
さらに造宮大夫として新都の建設に携わり、これにあたり、当時、しばしば大洪水を引き起こしていた
賀茂川の流れを、現在の位置に移し変えるなどのさまざまな治水事業や土木事業にも手腕を発揮しました。

 

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