1.神話から伝説の時代へ

神武東征

梅堂国政:
「神武天皇之像」
明治15年(1882年)
大判錦絵

安達吟光:
【神武天皇東征】
明治24年(1891年)
大判錦絵 3枚続き
神代の昔、高天原(たかまがはら)の長であった女神、天照大神(あまてらすおおみかみ)は
自らの子孫に地上を治めさせるため孫の邇々芸命(ににぎのみこと)を
筑紫(つくし 現・宮崎県)の日向(ひゅうが)の高千穂の峰に天降らせました。(天孫降臨)

そして三代後の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の4人の皇子(みこ)のうち、
五瀬命(いつせのみこと)とその弟である神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、
今以上に天地を平和に治めるために良い場所を求めて東方に向かって出発しました。

さて、瀬戸内海を通り河内の国(現・大阪府)に上陸した一行でしたが、
大和の豪族、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)の攻撃を受け、
五瀬命は敵の矢が当たり重傷を負いました。

天孫である自分たちが太陽の方角に向かって戦ったために大敗したと言う五瀬命は、
迂回をして背中に太陽を負って敵を討つべきであると主張したので、
紀伊半島を迂回することとなりましたが、その途中で五瀬命は絶命し、
以降は伊波礼毘古ひとりが軍を率いることとなりました。

熊野に上陸した伊波礼毘古は大和に入り、土地の神々や服従しない者達を平らげた後、
畝傍(うねび)の橿原宮(かしはらのみや)に即位をし、
日本最初の天皇である神武(じんむ)天皇となりました。

なお、神武天皇自体は伝説上の天皇であり、第9代の開化(かいか)天皇までの天皇については
考古学や歴史学等の観点から見た場合において存在自体が疑問視されています。

伝説上の天皇

楊洲周延:「皇統略圖」
明治14年(1881年)
大判錦絵 3枚続き

上記でも述べていますような、存在自体が疑問視されている天皇を、
俗に「欠史八代」
(けっしはちだい)と言い、『古事記』並びに『日本書紀』において、
系譜は存在するものの、その事績が記されていない
第2代の綏靖(すいぜい)天皇から第9代の開化天皇までの8人の天皇のこと、
あるいはその時代を指します。※ただし、現在においては実在説も根強く存在しています。

さて、掲載の作品は、初代天皇である神武天皇をはじめとして、
第2代:綏靖(すいぜい)天皇
第3代:安寧(あんねい)天皇
第4代:懿徳(いとく)天皇
第5代:孝昭(こうしょう)天皇
第6代孝安(こうあん)天皇
第7代:孝霊(こうれい)天皇
第8代:孝元(こうげん)天皇
第9代:開化天皇
第10代:祟神(すじん)天皇
第11代:垂仁(すいにん)天皇
第12代:景行(けいこう)天皇
第13代:成務(せいむ)天皇
第14代:仲哀(ちゅうあい)天皇
そして、第15代として神功皇后と第16代に応神天皇が描かれています。

また、画中には、明治天皇と昭憲皇太后も描かれていますが、
これは明治に入ってからの皇室の顕彰を目的として描かれたためと考えられます。

※なお、神功皇后は正式には天皇としての即位はしていないので、正しくは応神天皇が14代となります。

狭穂彦と狭穂姫

月岡芳年:「大日本名将鑑」
上毛野八綱田 狭穂姫
明治13年(1880年)
大判錦絵

第11代、垂仁(すいにん)天皇の5年(紀元前24年)、天皇の皇后であった狭穂姫の兄・狭穂彦は、
ある日、妹に対し「天皇と私のどちらを愛しく思うか」と問うたところ、
狭穂姫は「兄である貴方です」と
答えたので、妹に短刀を渡し、天皇の暗殺を試みさせたものの失敗したため、反乱を起こしました。

これに対し、天皇は
上毛野 八綱田(かみけの やつなだ)に兵を与え、狭穂彦を討つよう命じました。
追い詰められた狭穂彦は、稲城(いなぎ:稲の藁を防壁として高く積み上げた砦のようなもの)を築き、
その中に狭穂姫と共に立て籠もりましたが、1ヶ月あまりの篭城の末、火を放たれ炎上する稲城の中で
狭穂彦は自害し、狭穂姫もまた、これに殉じました。

野見宿祢と当麻蹴速

安達吟光:「大日本史略図絵」
二:野見宿祢 清涼殿の南庭に於いて當麻蹴速を蹴殺す
明治18年(1885年)
中判錦絵

同じく垂仁天皇の時代、当麻(たいま)の里の当麻蹴速(たいまのけはや)は
強力無双を以って聞こえ、自らその強さを広言して憚りませんした。

その事が天皇の耳に入り、蹴速に勝る者を探し出して、
蹴速と相撲を取らせる事を臣下に命じました。

臣の1人が、出雲(いずも)の国に住まう 野見宿祢(のみのすくね)という
剛の者を召し出だす事を奏上し、ついに宿祢と蹴速が対決する事になりました。
対戦の結果、蹴速は激しい蹴り会いの末に肋骨や腰を折られ死に、宿祢の勝利となりました。

さて、その後に朝廷に仕えた宿祢でしたが、垂仁天皇の皇后である日葉酢姫(ひばすひめ)が
亡くなった際に、故郷の出雲の国から土師部(はじべ)を召し出して埴輪を作らせ、
これを人柱の代わりとして陵(みささぎ)に埋め、これまでの殉死の風を改めるよう奏上した結果、
これを許され、更には土師(はじ)の姓を賜わりました。

また、この事により、宿祢は土師部の祖先とされました。

武内宿禰

楊洲周延:「東錦画夜競」
武内宿禰
明治19年(1886年)
大判錦絵

武内宿禰(たけのうちすくね。「たけしうち」とも)は、孝元(こうげん)天皇の子孫で、
景行(けいこう)・成務(せいむ)・仲哀(ちゅうあい)・応神(おうじん)・仁徳(にんとく)の
5代二百数十余年に渡って天皇に仕えたとされる伝説上の人物で、紀(き)氏の祖とされています。
※なお、この5人の内、景行天皇と応神天皇が、大和国内にそれぞれ皇居を置きました。

図は、ある夜、禁中で月見の宴が催された時、天皇は宿禰を側に呼び出そうとしましたが姿が見えず、
侍従に探させたところ、宿禰はただ一人で御所の中門を警護していたので、
天皇は老年に至っても忠勤を尽くす宿禰に対して、いたく感激したという
エピソードを描いたものです。

左上のコマ絵は、同じく宿禰が仕えた仲哀天皇の皇后である神宮皇后が、
三韓出兵に際し、釣りで吉凶を占う姿です。

允恭天皇と衣通郎姫

小林永濯:
允恭帝衣通姫之許ニ御幸之図」
明治34年(1901年)
大判錦絵 3枚続き

第19代:允恭(いんぎょう)天皇は、仁徳(にんとく)天皇の第四皇子で、
先代の反正(はんぜい)天皇が、皇太子を定めずに崩御したために群臣たちの合議により
天皇へと推挙されたものの、病気を理由に再三辞退したので、2年もの間、空位が続きましたが、
忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の強い要請を受けたために、ようやく皇位へと就きました。

即位して数年の後、天皇は皇后となった忍坂大中姫の妹である衣通郎姫(そとおしいらつひめ)を
妃(きさき:この場合は天皇の側室を指す)として入内させましたが、皇后の不興を買ったために
藤原宮(現・橿原市)へと住まわせました。

しかし翌年には、姫自らが皇后の嫉妬を理由に茅渟宮(ちぬのみや:大阪府泉佐野市)へ
移ってしまったために、天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に行幸を続けましたが、
ついには皇后に諌められ、その後の茅渟宮への行幸は途絶えがちとなっていったのでした。

大伴金村

月岡芳年:
「大日本名将鑑」
大伴金村 大臣 平郡眞鳥
明治13年(1880年)
大判錦絵

大伴 金村(おおとも の かなむら:生没年不詳)は、5世紀から6世紀にかけて大和朝廷に仕えた豪族で、
第24代:仁賢(にんけん)天皇の死後、平群真鳥(へぐりのまとり)・鮪(しび)父子が反乱を起こした際には
皇太子であった
小泊瀬稚鷦鷯尊(をはつせのわかさざきのみことの命によりこれを征討し、
小泊瀬稚鷦鷯尊が武烈(ぶれつ)天皇として即位した後には大連(おおむらじ)の地位につきました。

その後、武烈天皇の死により皇統が一時途絶えましたが、応神天皇の玄孫である彦主人王の子を
越前から迎え継体(けいたい)天皇とし、以後は安閑(あんかん)、宣化(せんか)、欽明(きんめい)の
各天皇に仕えました。

継体天皇の06年(512年)に、朝鮮半島の百済(くだら)からの任那(みまな)4県の割譲要求があり、
金村はこれを承認し、代わりに文化向上のため五経博士を渡来させました。
しかし、欽明(きんめい)天皇の01年(540年)には、新羅(しらぎ)が任那地方を併合するという事件があり、
物部尾輿(もののべのおこし)などから先の任那4県割譲など外交政策の失敗を糾弾され失脚しました。

また、欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目(そがのいなめ)が台頭したことなども重なり、
これ以後、大伴氏は衰退していき、政治の舞台からは姿を消しました。

 

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