2.飛鳥の朝廷
蘇我氏と物部氏の対立 |
仏教の信仰問題に端を発した蘇我氏と物部氏の対立は、 ついに両氏による戦争へと発展しました。 蘇我馬子と共に崇仏の立場をとっていた厩戸皇子(聖徳太子)は、 物部守屋を倒し、守屋の所領に四天王寺を建立したとされています。 |
乙巳の変と大化の改新 |
厩戸皇子亡き後、権勢を欲しいままにし、皇位継承に関しては 太子の子である山背大兄王を殺害するなどした蘇我氏の筆頭である蘇我入鹿は、 皇極天皇の5年(645年)宮中にて、中大兄皇子や中臣鎌足らによって殺害されました。 これを「乙巳の変(いつしのへん)」と言います。 その翌日、入鹿の父である蝦夷(えみし)は邸宅に火を放って自殺し、 ここに宗家の蘇我氏は滅亡しました。(※ただし蘇我氏自体はこの後も存続しています。) なお、蘇我氏の滅亡から、孝徳天皇の即位までの一連の流れを世に「大化の改新」と言います。 |
藤原鎌足 |
藤原鎌足(619〜664)は、はじめ中臣鎌子(なかとみのかまこ)と称し、 後に鎌足と名を改め、唐より帰国した南渕請安の元で儒教を学び、 蘇我入鹿と並んで秀才と称されました。 その後、専横を極めた蘇我氏を打倒し、次の天皇となるべき皇子を探すべく、 軽皇子(後の孝徳天皇)、次いで中大兄皇子へと接近しました。 そして、皇極天皇の5年(645年)、中大兄皇子(後の天智天皇)や 蘇我倉山田石川麻呂(入鹿の従兄弟)らと共に飛鳥・板蓋宮において入鹿を殺害し、 その父・蝦夷を自殺へと追い込みました。 この功績により、鎌足は中大兄皇子の元で軍事権を握り、大化の改新を推進する 皇子の側近として、保守派の阿部倉梯麻呂、蘇我倉山田石川麻呂と対立し、 二人が逝去・讒訴による自殺をすると勢力を伸ばしました。 鎌足は664年に死去しますが、臨終の際に大織冠と藤原の姓を天智天皇より賜り、 これにより、鎌足を始祖とする藤原氏がここに誕生し、この後、奈良・平安時代を通じて 天皇の外戚となった事や、摂関政治を行うなどし、政権を掌握する事となっていきました。 |
持統天皇 |
持統天皇(645〜703)は、天智天皇の娘として生まれ、 その後、父の同母弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)の妃となり、 草壁皇子をもうけましたが、天智天皇が晩年になり、皇位継承上の問題から 大海人皇子との仲が悪化すると大海人皇子は宮中を辞し、 天智天皇が死去すると、夫と共に吉野へと逃れました。 壬申の乱が終結し、大海人皇子が天武天皇に即位すると、皇后となり、 天皇没後には、姉である大田皇女の皇子、大津皇子に 謀反の嫌疑をかけて殺し、自分の息子である草壁皇子を天皇にすべく皇太子としましたが、 草壁皇子は即位する前に早世してしまいました。 その数年後に、自身が女帝として飛鳥の浄御原(きよみはら)宮で即位しました。 そして、694年には既に造営に着手していた藤原京へと遷都を行い、 また697年に、草壁皇子の遺児である軽皇子(後の文武天皇)を15歳で立太子させ、 同年に譲位し、自らは天皇の後見に努めました。 春すぎて 夏來にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天のかぐ山 【百人一首】より |
柿本人麻呂 |
柿本人麻呂(660年頃〜720年頃)は、飛鳥時代〜奈良時代初期の歌人です。 三十六歌仙の一人に数えられ、山部赤人と並ぶ歌聖とも称えられてます。 当初は草壁皇子に舎人(とねり)として仕えましたが、後に各地を転々とし、 最後に赴任先の石見国(現在の島根県西部)で亡くなったとされています。 また、名前こそは有名ですが、経歴が史書にも書かれていないため 不明な部分が多く、「万葉集」が唯一の資料となっています。 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 【百人一首】より |