土人形 |
九州地方 |
古型博多土人形(福岡県 福岡市 ) |
現在、「博多人形」と言えば高度に工芸化された優美な装飾用の人形を連想しますが、 そもそも本来の博多人形は、土俗的な味わいを持つ節句向けの雛人形や風俗人形が主であり、 郷土人形のカテゴリーでは、これと区別するため「古博多人形」「古型博多人形」と呼んでいます。 当初、博多人形は江戸時代の文政5年(1822年)に、筑前黒田藩の御用窯の焼物師であった 4代目 正木 宗七(副業として土人形も製作)の指導により、中ノ子 吉兵衛が製作をしたことに始まり、 吉兵衛の四男である吉三郎が2代目として後を継ぎましたが、画才もあり、彫刻に秀でていた吉三郎は、 多くの人形の原型を作り、これを元とした土人形が幕末から明治にかけて数軒の製作者により作られ、 博多のみならず、他の地方に販路を拡大するほどの盛況を呈しました。 ※なお、宝暦末期(1763年頃)に活躍した2代目の正木
宗七の時点で既に土人形が作られていましたが、 |
弓野土人形(佐賀県 武雄市 ) |
博多土人形の職人であった原田
亀次郎が、九州各地で修行の後、 明治15年(1882年)に弓野の地に移り住み、造り酒屋を営む奥川 権左衛門の家で 新たに土人形を作り始めたのがはじまりとされています。 その後、明治21年(1888年)に、土地の旅籠屋の主人であった江口 友三郎に人形作りの腕を見込まれ、 婿養子として江口家に入った後に、土人形を商う「江口人形店」を開業しました。 その後は次第に販路を広げ、明治時代後期から大正・昭和を通じて 佐賀県はもとより、熊本から鹿児島西部までの広範囲にわたり、多くの人形を送り出しました。 なお、現在は、3代目の江口 勇三郎氏、4代目の誠二氏により製作が行われていますが、 江口家以外にも諸岡 利昭 氏や古瀬 幾雄氏が、それぞれの専門分野の作品を制作しています。 博多人形の流れを汲んでいることもあり、大型の節句人形が多く、肌の部分には磨き出しを施し、 明るい色彩を施したカラフルな作りが特徴です。 また、大型の人形以外では、様々な種類の貯金玉(土製の貯金箱)があり、 かつては、古瀬 与三郎 家(前述の古瀬 幾雄氏の親戚)において盛んに製作していましたが、 与三郎氏が亡くなった後は、古瀬家は絶えてしまい、現在は大宅 元次氏が引き継いでいます。 |
帖佐土人形(鹿児島県 姶良郡 ) |
正確な創始の時期などは不明ですが、現在、記銘のある人形の型に文久2年(1862年)のものがあることと、 また、当初、薩摩藩内においては、幕末ごろまで伏見人形が節句向けの人形として移入されていましたが、 価格が高価であったことなどもあり、それに代わるものとして製作が始められたものとも考えられます。 昭和初期には、d松(あべまつ)彌太郎、柳田岩熊、山口喜之丞など数名の作者がいましたが、 戦後になり転廃業が相次ぎ、一旦は廃絶しました。 その後、彌太郎の長男の伝(つたえ)が、昭和27年頃から人形作りを再開し、 本業の傍ら、一時期のあいだ製作をしましたが長くは続かず、これも間もなく中止となりました。 しかし、昭和40年代に入り折田 太刀男 氏が復活を行い、 現在は、太刀男 氏の後を継いだ息女の貴子さんが製作をされています。 30センチを超える大型の節句人形を筆頭に、中型や小型の人形など様々な種類がありますが、 現在製作されているものは別として、全体的に粗雑な作りで、人形を型から抜いた時にできる 前後の合わせ目のはみ出し部分のバリを修正しないまま焼成して着彩したものが多々あります。 また、大型の人形については、安定感を増すためや、 かさ上げによる見栄えの良さを増すためと思われますが、 人形の下部に台状の部分を継ぎ足した造形がされているものも見受けられます。 |