土人形 |
東北地方 |
八橋土人形(秋田県 秋田市) |
江戸時代後期の寛政年間(1789〜1800)から文化年間(1804〜1817)頃にかけて、 当時、北前舟によって秋田まで運ばれて来ていた伏見人形の影響を受けて始められたと推定されています。 幕末頃には十数軒もの作者があったと伝えられるほどの盛況でしたが、明治も半ば以降になり、 衣装人形などの大衆化が進むようになると、下りものの高級人形に押され次第に衰微していき、 製作者も、昭和のはじめには高松家、遠藤家、道川家の3軒だけとなり、平成元年に高松茂子さんが 亡くなられた後は、現在は道川トモさん ただ一人が、わずかに製作をされるばかりとなってしまいました。 人形の特徴としては、同地では天神信仰が盛んだった事から、多くの種類の天神人形が作られました。 特に、木製の台座に乗った大型の挿し首の座り天神や牛乗り天神などが有名です。 また、色彩に関しては、明治中期頃までは古い伏見人形と同様の、朱や緑青を基調としたものでしたが 明治33年(1900年)の「有毒色素取締法」の施行後になると、科学顔料やニスを使用するようになり、 厚ぼったく、暗めの色合いへと変わったため、この色彩の方が一般的な八橋土人形のイメージとなっています。 ※なお、現在では「〜取締法」以前の、鉱物性顔料で彩色した人形を「古八橋土人形」として区別しています。 |
中山土人形(秋田県 横手市) |
江戸時代末期、肥前(現在の佐賀県)鍋島藩の陶工であった野田宇吉が盛岡の南部藩へと招聘されましたが、 天保の大飢饉時には南部を出て、流浪の末、秋田の湯沢へとたどり着いた後、再び陶業をはじめました。 その後、現在の横手市の中山に移り住んだ宇吉は結婚し、長子の金太郎を儲けましたが その金太郎と結婚した樋渡ヨシが、陶業の傍ら宇吉から粘土細工を習い、当時地元で作られていた 押絵人形や姉様人形から題材の着想を得て、明治7年(1874年)より製作を始めたとされています。 また、昭和3年には、ヨシの孫であり、3代目を継いだ義一が仙台の堤へと陶業の研修を受けに行き、 帰郷後に新たに多くの型を起こし、4代目の昭太氏(平成11年没)を経て、現在は5代目の徹 氏、並びに 昭太氏の兄弟である浩三氏により、製作が続けられています。 東北の土人形の中では比較的に明るい彩色で、衣装に施された、 明治以降の花巻人形にも見られるようなタイプの花模様が特徴となっています。 また、毎年新型も製作しているため、当初よりの型も含めると非常に多くの種類があります。 |
花巻人形(岩手県 花巻市) |
江戸時代は享保年間(1716〜1736)に、伏見人形の型をモデルに創始されたと伝えられていますが、 最も古い創始者と伝えられている太田善四郎の没年(文化7年:1810年)や、残されている人形の土型の 刻銘(天明2年:1782年)から推定して、寛政(1789〜1801年)頃の創始と推定されています。 仙台の堤人形・米沢の相良人形と並び「東北三大土人形」のひとつに数えられ、 その種類は、数百種を優に超えるほどでしたが、明治に入ると衰退の一途を辿っていきました。 しかし、その中でも苗代沢家や照井家などが、明治ならではの風俗人形や、日清・日露戦争時には 様々な軍人ものを新たに型起こしをして製作するなどして多くの種類の人形を作り、一時的ではありましたが 非常な活況を呈しました。 戦後になり、最後の製作者であった照井としさんが昭和34年に死去されたため、一旦は廃絶したものの、 現在では、照井家の型を受け継いだ 平賀恵美子さんにより製作が続けられています。 |
気仙高田土人形(廃絶:岩手県 陸前高田市) |
正確な時期は不明ですが、明治時代の中期頃に、花巻人形の流れを汲む、 遠野の附馬牛(つきもうし)人形の影響を受けて創始されたと推定されています。 最後の作者であった熊谷 卯八郎が、戦前に製作を中止したのに伴い廃絶しました。 ※ただし、戦後になってから趣味家の要望に応え、少数は製作されたようです。 特徴としては、花巻や、仙台の堤人形からの抜き型を多用しているという事と、 衣装の部分に施された4枚の花弁の小ぶりな花模様が挙げられます。 なお、ご覧の通り保存状態が相当悪く、ご覧になられるのには不適当かもしれませんが、 あくまでも産地と人形の紹介を第一にしたい…という事で、あえて掲載しました。何卒ご了承下さい。 |
堤人形(宮城県 仙台市) |
京都の伏見人形、長崎の古賀人形と並ぶ【日本三大土人形】のひとつであり、 そして、花巻人形・相良人形と並ぶ【東北三大土人形】の筆頭でもあります。 江戸時代中期頃に仙台藩の足軽の副業として始まったとされており、 寛延から安永期(1748〜81)、文化・文政(1804〜30)の2度にわたる最盛期がありましたが、 天保の大飢饉を境として、その後は次第に廃れ、現在は芳賀家と佐藤家の2軒が製作を続けられています。 なお、衣装に施された模様が、福島県の三春張り子の古作品と非常に良く似ていますが、 これは当時、三春張り子が堤人形からの影響を多く受けたからではないかと考えられています。 |
相良人形(山形県 米沢市) |
堤人形、花巻人形と並ぶ「東北三大土人形」のひとつとされています。 江戸時代の安永7年(1778)に、名君として知られる米沢藩主の上杉鷹山公が 財政再建の一環として、藩士の相良 清左衛門に陶器(成島焼)の窯を開かせましたが、 彫刻を特技としていた清左衛門は、伏見人形の型を学んだ後に独特の人形型を創始し、 自らの姓を入れて相良人形と名付けました。 ※なお、現在は7代目にあたる相良 隆氏により、伝来の型を使っての製作が続けられています。 さて、相良人形における時代判定ですが、面相においては判定基準のひとつとして瞳の描き方があります。 初代の清左衛門(厚忠)や2代目の作右衛門(直厚)の作品は、上まぶたの線の下に眼点を付ける描き方や、 俗に「三角眼」と称される2等辺三角形のような形状をしたものになりますが、 3代目の清左衛門(厚正)の作品は、瞳の中に眼点を描くという形なので、比較的容易に区別が付きます。 また、衣服の桜文様も、初代や2代目は衣服の模様に描かれた桜の花の花弁に切れ込みがありますが、 3代目の作品の場合、切れ込みは極々浅くなるか、もしくは描かれなくなり円形となっています。 ※この時期からは、作品によっては桜花文様とは別に、菊花状の文様も描かれるようになります。 よって、「おぼこ」「」「大黒」以外の人形は3代目以降の作品であり、 少なくとも幕末〜明治頃の作品であるとし、「立ち狆」には首飾りの彩色に紫色が使われているので、 4代目清左衛門の作品であると思われます。 (判定に当たっては、足立 孔「全国郷土人形図鑑」の「郷土人形鑑別の一例」を参照しました) |
寺沢人形(廃絶:山形県 米沢市) |
江戸末期から明治初期にかけて、相良人形と並んで米沢で製作されていた土人形です。 長い間、相良人形と混同されていましたが、近年、日本郷土人形研究会により詳細が明らかになり、 相良家3代目の清左衛門(厚正)の妹が嫁いだ先の寺沢家で製作されていたらしい事が判明したため 暫定的ではありますが、現在は寺沢人形という名前で各所に紹介されています。 人形の製作法などを相良家から教わったと推定されるため、表情は3代目の清左衛門のものと似ていますが、 相良人形において特徴的な桜花模様は使用されず、その代わりに抽象的な草花模様や、線描きの梅花模様が 使用されており、その他にも使用されている緑青や蘇芳なども、色調等が本家とは違う事が指摘されています。 また、人形の種類も、型の借用をしたと推定される相良人形そのものから取った物は少なく、 むしろ寺沢家で独自に作った型や、他産地の人形からの抜き型に拠ったものが大半を占めており、 さらに特徴的なものとしては、腹掛け部分等に実物の布地を貼るなどした御所人形を模したものが挙げられます。 |
成島土人形(廃絶:山形県 米沢市) |
米沢郊外の成島集落において、明治の末期から大正時代にかけて、 農業の片手間に、井上 弘章によって作られていた土人形です。 相良人形から型取りをしたもので、顔の磨き出しや頭部の水引模様などは、本家を良く模してしていますが 全体的に彩色は荒く、またニスっぽい仕上がりのため、同時期の相良人形とは、容易に区別する事が出来ます。 |
下小菅土人形(廃絶:山形県 米沢市) |
米沢の北の下小菅集落で、明治末から大正初期にかけて小山田
亀蔵によって作られていた土人形です。 全体的に小型の物が多く、菫黒色(紫がかった黒色)を多用した彩色が最大の特徴です。 また、同時期に製作されていた成島土人形に比べると、下小菅ならではの独創的な型が多く見られます。 |
鶴岡土人形(山形県 鶴岡市) |
江戸時代末期の天保年間(1830〜43)に、庄内藩士の尾形
喜惣治が製作を始めたとされていますが、 これに関しては、当時の北前舟の航路の発展に伴って、下りものとして庄内地方へと移入された伏見人形に 刺激されたものと考えられます。 その後、尾形一族が代々製作を続け、昭和33年に5代目の喜一郎氏が亡くなり一旦は廃絶しましたが、 近年になり、ご子息の尾形 弘一 氏が6代目として製作を再開され、再び復活するに至りました。 特徴としては、伏見人形の影響もあるためか、当時、庄内地方に移入された伏見人形と同様の 丹・黄土・緑青などの絵の具を使用しており、一見すると、どちらも同じような雰囲気に見えますが、 鶴岡土人形の中には土の塊が入っており、振ると音がするため割合容易に判別することが出来ます。 また、人形の形態についても伏見人形と同じものが多く見られますが、原型を複製するための手段としての 人形に粘土を被せての型取りにありがちな、細部のディティールが損なわれてしまうものとは違い、造形が 非常にしっかりとしているため、これについては型を専門に売る伏見の業者から購入した可能性も考えられます。 ※なお「日本郷土人形研究会」の北原 直喜 氏により、鶴岡土人形の中にも、本家の伏見人形と同じ部分に 人形を製作した窯元の刻印が存在しているものがあるので、伏見人形そのものから直接に型を取った事例も あったという報告がされています。 |
大宝寺土人形(廃絶:山形県 鶴岡市周辺) |
現時点での詳細は まだまだ不明ですが、江戸末期から明治中期頃にかけて 鶴岡の周辺で製作されていたと考えられる土人形です。(大宝寺は鶴岡の古名です) 特徴としては、彩色や型も含めて同時期の鶴岡土人形と良く似ているように見受けられますが、 鶴岡土人形の菱形のような目の入れ方とは違い、特徴的な三角眼である事が挙げられます。 なお、それ以外では、自分が入手した物で見た範囲内では、鶴岡土人形と比べて土の質が違う事と、 型から抜いた人形の前後を合わせる際に、上から和紙を貼り付けている点が相違点であると思われます。 ※この人形の紹介にあたっては、拠るべき文献等が無いため「郷土人形美術館」様の解説を参考にしました。 |
酒田土人形(山形県 酒田市) |
江戸時代末期ごろ、鋳物業を営んでいた鍋屋
助左衛門が、旧・飽海郡の鵜渡川原(うどがわら)村へと 移住後に製作を始めたと考えられており、残されている人形の木型に文政4年(1821年)の墨書があります。 ※鵜渡川原村は1929年に酒田町(市制施行により1933年に酒田市に)に編入される前の地名です。 その後、明治になり長男の大石 助蔵が本家を継ぎ、次男の孝之助、 三男の周蔵(後に木山家の養子)も含め、それぞれが土人形作りを受け継ぎました。 まず本家の助蔵ですが、木原家に入っていた周蔵の長男である周助を養子に迎えましたが、 この頃には、本業である鋳物や鉄工所の仕事が中心となったため、人形作りは縮小されました。 その後、人形作りは周助の長男である定佑(本家4代目)、やゑ夫妻が受け継ぎましたが、 定佑氏は平成11年に亡くなり、現在は、やゑさんが「鵜渡川原人形保存会」を興し、 人形の製作と後進の方々の指導に当たっています。 次男の孝之助は明治25年頃に分家独立し、他産地の人形から抜き形を作り積極的に製作をしました。 そして、長男の重助(分家3代目)と妻の梅代を経て長女である文子さん(同4代目)へと引き継がれましたが、 文子さんが平成4年に死去したため、大石分家の人形は廃絶しました。 最後に、木山家に入った三男の周蔵は風俗ものを、周蔵の次男の金之助は昔話ものを得意として 人形の製作を行いましたが、金之助の死去により木山家での人形作りも終わりを告げました。 なお、分家の重助と結婚した前出の梅代は周蔵の三女にあたります。 また、酒田土人形は、時代ごとに以下の3つの区分に分けられます。 (1)「鵜渡川原土人形」:江戸末期〜明治20年頃にかけての期間に製作されたもの 小さい木型を使って型抜きし、焼成しないで乾燥させた形態と、植物性顔料による彩色に特徴がありますが 明治20年代あたりになると、制作方法こそは変わりませんが、塗料が鉱物性のものへと切り替わります。 (2)「古酒田土人形」:明治中期〜大正・昭和初期頃の期間に製作されたもの 当時 北前舟を経由して庄内地方に移入されていた伏見人形や長浜人形、古博多人形などから 型取りした抜き型を使用した上で、焼成をして彩色を施した大型の人形が登場するようになります。 なお、従来からの木型を使った人形は、この頃になると、ほとんど見られなくなります。 また、彩色に関しても更に変化が進み、従来の丹がオレンジのような朱色へと変わり、 明るい緑色や紫色が使用されはじめ、更に大正時代に入ると金色が多用されるようになっていきますが、 これは、型抜きのために取り寄せた、岐阜県の瑞浪土人形を忠実に模倣した結果であるとされています。 (3)「酒田土人形」:戦後から現在に至るまで 「古酒田土人形」の末期ごろのものスタイルがそのまま踏襲されているため 著しい変化は特にありませんが、時代区分の上という事での区別をしています。 |
堤系土人形 |
山形県の東部にあたる村山地方では、当初は仙台から堤人形が行商人等の手により移入されていましたが、 天保の大飢饉によって、堤では職人の餓死や、販売能力に対して壊滅的な打撃を受けた事もあり、その結果、 堤人形の流入が止まったために、堤へ修行に行って帰郷した職人や、地元で陶業に従事していた職人が、 彩色や文様なども含めての堤人形の制作方法を踏襲した、地元産の土人形を製作するようになりましたが、 現在では、これを一括して【堤系人形】として分類しています。 なお、全体的な特徴としては、堤人形に粘土を被せて直接に型を取る、いわゆる孫型を使っての製造になるため 焼成の際に焼き詰まりが起こり、本家に比べて一回り小さく、ディティールが甘い作品になる事が挙げられます。 ※人形の分類、考察に関しては、【日本郷土人形研究会】の「堤系人形」に依りました。 |
堤系土人形/花山土人形(廃絶:山形県 東根市) |
江戸時代の末期の天保頃(1830〜43)に、肥前は有田の出身の陶画工である卯平が、 土地の窯元の土赤 与右衛門に雇われた後、大庄屋の小山田 理兵衛宅の物置を借りて 製作を始めたとされる人形で、堤系の人形の中では、最も古い部類に属する人形です。 なお、現存する人形の中に、天保12年(1841年)の墨書のある人形が確認されているため、 恐らくその時点では既に製作が開始されていたと考えられます。 当初は、後述の猪之沢との区別がなされていませんでしたが、現在は【日本郷土人形研究会】の 研究により、卯平の製作した人形は土赤 五郎吉のものとは違う作風等であることと、 作陶した作品を焼いた窯のあった場所の地名から「花山土人形」という名称で分類されています。 堤系人形の中では最も本家の作風に近いタイプで、人形の制作方法も踏襲した上で、 本家特有の花崩し模様をベースに、様々な種類の描彩を駆使しています。 また、一部の人形の中には、非常に薄手に焼かれたものもあり、卯平の焼成技術の高さを窺うことができます。 |
堤系土人形/猪之沢土人形(廃絶:山形県 東根市) |
仙台に通じる関山街道沿いの猪之沢集落で、江戸末期から明治時代にかけて作られた土人形です。 近在の谷地や東郷村、楯岡などの雛市で売られましたが、明治末頃までに廃絶しました。 なお、文献によって作者名や開始時期に関して記述に違いがあり、「全国郷土玩具ガイド(1)」では 江戸後期の文政(1818〜30)の頃、大庄屋の小山田 理兵衛が雇い入れた瀬戸焼の陶工の一人である 土赤 五郎吉が仙台に出て堤人形の製法を習得し、弟子の卯平と共に製作をした…とあります。 しかし、「日本の土人形」では、卯平は土地の窯元の土赤 与右衛門の雇い人である…となっており、 幕末の嘉永(1848〜54)の頃に窯業のかたわら製作をし始め、その後になってから前記に同じく 仙台で堤人形の製法を習得した土赤 五郎吉が継いだ…という記述となっています。 ちなみに、現時点での最新の研究では、卯平は嘉永頃から明治14年(1881年)頃まで製作を続けた後に 猪之沢を去っており、その後に五郎吉が製作を開始したという事が判明しています。 堤系の人形の中では、非常に肉厚で重たい作りである事と、同じ種類の人形であっても、 いずれも彩色や描彩が統一されていないなど、おおらかな作りが特徴となっています。 |
堤系土人形/与六土人形(廃絶:山形県 山形市) |
村山地方の西部にあたる柏倉において、幕末期から明治前期頃にかけて、 陶工の奥山与六が製作した人形です。 当初は、堤で修行をした与六でしたが、後には遠く尾張地方(現:愛知県)へも修行に赴き、 明治元年(1868年)に帰郷して、それまでに培った技術を活かして、陶業の現地指導を行い、 陶器や磁器、そして土人形を製作しました。 人形の特徴としては、当初のものは堤人形の影響が強い作風でしたが、 関西方面からの修行から戻った後は、色使いが派手になり、黄色の網目模様が描かれるようになります。 また、帰郷後になってから製作された人形の中には、堤系統とは全く異なる、 庄内地域の代表的な土人形である、鶴岡土人形の影響を色濃く受けたものも存在します。 |
根子町土人形(廃絶:福島県 福島市) |
現在の福島市の清水町にあった宿場町の「根子町」(「根っ子町」とも)において、 江戸末期から明治末期頃にかけて製作された土人形です。 伝承では、姑の嫁いびりに耐えられなくなった、堤人形の窯元の若い娘が自家の人形職人と共に出奔し、 その逃避行の途中、根子町で急病に罹り、旅籠を営む仙台屋に助けられました。 そして、仙台屋に逗留中に人形職人が作った堤人形の出来が評判となったたため、 興味を持った主人は2人のために仕事場を提供し、また自らも人形作りを学び窯元となって製作を 始めたと伝えられています。 ただし、実際のところは文化・文政年間(1804〜30)に、仙台屋の高橋 吉郎次が始めたとされており、 また、仙台屋とは別に、血縁関係にある吉野家こと鈴木家においても人形を製作していました。 彩色などは、堤人形に酷似していますが、人形の背面が扁平なものが多い事や、土質が荒く赤いこと、 また、土質の荒さをカバーするためか、薄い和紙を貼った上から彩色をしている事が大きな相違点となっています。 |