土人形

 

近畿地方

伏見人形(京都府 東山区)

鯛曳き童子
11.5cm 江戸末期頃

手習い
12.5cm 江戸末期〜明治初期頃

乳やり御高祖頭巾
13.2cm 江戸末期〜明治初期頃

座り童子
10.9cm 江戸末期〜明治初期頃

俵持ち童子
14.3cm 江戸末期〜明治初期頃

天神
18.1cm 明治初期

座り狆
12.7cm 明治初期〜中期頃

おぼこ
19.3cm 明治前期〜中期頃

力士
18.3cm 明治前期〜中期頃

熊金
22.8cm 明治中期
冨士忠(清水家)製
※背面に「冨士忠」の刻印あり
日本三大土人形の筆頭であり、且つ日本の郷土人形としての土人形の元祖とされています。

元祖と言われるだけあって、その歴史も古く、天正年間(1573〜92)の豊臣秀吉の伏見城築城に際して
集められた瓦職人達が余技として作り始めたのが起源とされており、事実、天正3年(1575)記銘の古作が
現在も、ただ一軒地元の伏見で製作を続けている老舗の「丹嘉(たんか)」に収蔵されています。

初期の頃は、壷壷(つぼつぼ:壷をかたどった玩具)などの人形以外の土玩具があったようですが、
元禄の頃になると、井原西鶴の著作や名所案内の中などにも様々な種類の人形が挙げられるようになり、
更に江戸時代の中期から幕末頃にかけては、店を構えて商いをする家から、窯を持たずに下職をつとめる
店を含めると、その数50軒に及ぶと言う程の製造元が存在し、稲荷詣でに訪れた参詣客や、門前の街道を
行き交う旅人が、それぞれの縁起にちなんだ人形を買い求めました。

また、地元の伏見の川港からも大量の人形が出荷され、北前舟などに積まれて全国各地へと送られましたが、
この事が、各地方での土人形の生産を促して多くの人形産地を生む素地となりました。

なお、人形の種類に関しても「丹嘉」に収蔵されているものだけでも1000種以上あり、かつて営業していた
他の店ものを含めると数千点にも及んだものと思われますが、これもまた元祖たる所以でありましょう。

こうして、盛況を極めた伏見人形でしたが、明治時代には他の産地と同様に衰退期に入ります。
明治22年(1889年)に鉄道が開通して地元に稲荷駅が出来ると伏見の港も徐々に寂れていき、
更には、京都市電や京阪電車が通るようになると、伏見街道を通る旅人も居なくなりました。

こういった状況下で、大正時代から昭和初期には次第に転廃業する窯元が増えたものの、
戦前までは「丹嘉」「割松屋」「冨士忠」「綿治」など10軒あまりの店が窯を焚いていましたが、
それらの窯元も戦争をきっかけとして製作を中止し、戦後になってからも営業を続けたのは
「丹嘉」と「菱屋」の2軒だけとなりました。

そして近年、伏見から宇治市へと転居していた「菱屋」の上田家も製作を中止したために、
現在は、「丹嘉」と、新規の起業ながらも以前より「菱屋」の人形を扱っていた「高畠商店」が
現代の好みに即した人形作りをされています。

赤もの 天神
12.0cm 明治末期頃

赤もの 恵比須
7.7cm 明治末期頃

赤もの 三味線弾き
7.2cm 明治末期頃

赤もの 大黒
15.4cm 大正頃

赤もの 布袋
4.5cm 大正頃

赤もの 牛乗り天神
15.2cm 大正頃

赤もの 立ち娘
13.5cm 大正頃

赤もの 力士
10.5cm 大正頃

赤もの 見立て西行童子
7.6cm 大正頃

赤もの 大黒
7.6cm 大正頃
赤ものとは、別名一文人形とも呼ばれ、江戸から大正末期にかけて、伏見稲荷の参道で売られていた
子供向けの安手の人形ですが、小は数センチの小さい物から大は20センチを越えるの大型のものまで、
さまざまな種類がありました。

特に、主に赤色を主とした彩色を施し、また裏面も赤く塗ったものも多く見られるため、
疱瘡神は赤色を嫌うという俗信による、子供の疱瘡除けとして作られたものも含まれると思われます。

小幡土人形(滋賀県 東近江市)

鯛抱き若恵比寿
22.5cm 明治末期
作:細居 源助(7代目)

子守り
20.8cm 大正頃
作:細居 源助(7代目)
江戸中期の享保年間(1716〜36)に、飛脚を生業としていた初代の細居 安兵衛が、
道中で追い剥ぎに襲われる恐ろしさや、被害にあった品物の補償に対する問題から転業を考え、
当時、既に人気の高かった伏見人形に眼を付け、技術を習得して売り出したのが初めとされています。

当初は伏見人形の忠実な模倣から始まった小幡の人形でしたが、戦後には8代目の故 細居 文蔵 氏により
新たな型が多く起こされ、水色や桃色などの明度の高い色彩を多用した鮮やかな人形へと姿を変えました。
現在は、9代目の源悟 氏が文蔵 氏の後を継いで製作をされています。

人形の型の大半は伏見人形と同種で、現存する土型の中には古い伏見人形の窯元の名前や、
現在では廃業した窯元の名前が彫り込まれた物がありますが、これは伏見から型を仕入れたり、
窯元が廃業する際に型を譲り受けたためと思われます。

また、小幡独自の型として、本家伏見における「わらいもの」(性に関する表現をした人形)と同様の
「松竹物(まつたけもの)」があり、狐が背中に陽物を背負っている「松竹狐」などのユニークな人形があります。

掲載の人形は、文蔵 氏の先代である源助の作品ですが、特に「鯛抱き若恵比寿」においては
同時期に作られた同じ題材の伏見人形と、ほぼ同じ色での彩色を施されているため、
一見しただけでは同一の人形かと見間違うほどですが、前後の継ぎ目の処理の甘さや、
底面の処理の荒さから、あくまでも小幡人形たるローカルさを感じ取る事ができます。

稲畑土人形(兵庫県 氷上郡)

虎加藤
35.2cm 明治末期

松曳き金太郎
26.1cm 明治末期〜大正頃

政岡(【伽羅先代萩】より)
33.5cm 大正頃
作:赤井 佐久(2代目)

鯛抱き恵比寿
30.2cm 大正頃
江戸時代末期の弘化3年(1846年)、土地の郷士であった赤井 若太郎 忠常が14歳で家督を継ぎ、
同年の春に京都で伏見人形を見て帰郷した後に、村内に良質の粘土が産出するのに目を付け、
人形にまつわる物語を通じて、子供に対する徳育を高めようと思い立ち、自ら製作を始めたと伝えられています。

※ただし、実年齢の点で考えると無理があるため、伏見から職人を引き抜いて製作をはじめたというのが
実際のところであると考えられます。(【稲畑人形】:日本郷土人形研究会による)

また、村人にも農閑期の副業として製作を奨励したため、最盛期の明治時代においては赤井家以外にも
宮崎家をはじめとする7・8軒あまりが人形を製作し、丹波一円をはじめ、但馬や播磨地方にまで送り出す
といった盛況ぶりでしたが、昭和10年頃に至り、赤井家を除いては、いずれもが廃業しました。

なお、赤井家は、2代目の佐久(さく)、3代目の直道、4代目みさ代(みさよ)と続き、
現在では、みさ代の娘である赤井 君代さんが5代目として技術の継承をされています。

人形の特徴としては、伏見からの抜き型が非常に多い事と、使用している粘土が良質なため、
軽くて薄い仕上がりであること、全体的に紫の絵の具をふんだんに使用している事などが挙げられます。
また、人形の種類も非常に多く、この地方の節句に付き物の天神人形をはじめとして数百種類が数えられます。

葛畑土人形(廃絶:兵庫県 養父郡)

お三輪(【妹背山女庭訓】より)
27.4cm 明治中期頃

俵持ち童子
14.2cm 明治末期頃

舞い女
29.5cm 大正期
   
江戸末期、前田 友助が、京都伏見で見た土人形の製法を元に、
買い求めた人形を参考にして、本職の瓦焼の冬季の副業として作り始めました。

明治の中期頃に良質の土を求めて、当初人形を製作していた八木川沿いの河原場から、
大野峠のふもとへと移住し、第2次大戦を挟んで、戦後も製作が続けられましたが
4代目の前田 俊夫 氏が昭和56年に亡くなり廃絶しました。

特徴としては、焼成してはありますが、土質のせいか人形自体が重いので、
多少なりとも軽くするためか、底の部分を抜いているものが多い事が挙げられます。

また、俊夫 氏の代になってからは、従来の伝統的な人形に加えて、
農村の風俗などをモチーフとして、新しく型を起こした細やかな描彩の現代的な土人形も製作されました。

丹波系土人形(廃絶:兵庫県 北部各所)

乳やり御高祖頭巾
10.5cm 明治初期

松曳き金太郎
23.5cm 明治末期

現在の兵庫県北部にあたる丹波地方における土人形は、稲畑土人形、早瀬土人形などが知られていますが、
それらの産地とは別に、伏見人形の影響を受けた傍系の人形の産地が、詳細な場所こそは不明ながらも、
明治末期頃まで数多く存在していました。

掲載の人形の内、「松曳き金太郎」は早瀬土人形と同じく佐用郡から産出されたものですが、
早瀬のものとは描法等で違いがあるため早瀬の集落を中心として、非常に狭い範囲内において存在した、
いくつかの産地のものの内のひとつと思われます。
(この解説につきましては、北村英三氏のご教示によりました)

 

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