土人形

 

中部地方

名古屋土人形(廃絶:愛知県 名古屋市)

天神
11.3cm 明治中期

俵担ぎ大黒
13.5cm 明治後期〜大正期

常盤御前
26.3cm 明治末〜大正期
天神
8.0cm 明治末〜大正期

恵比寿
15.8cm 明治末〜大正期
作:山田こう・はつ姉妹

牛若丸
30.6cm 明治末〜大正期
作:野田 末成

子守り娘
17.8cm 大正〜昭和初期
   

名古屋土人形は、明治初期、御器所七本松に在住の伊藤友松が創始したというのがこれまでの定説でしたが
近年、古谷哲之輔 氏により、江戸期の古書や、名古屋城三の丸から発掘された土人形などからの考証による
研究の結果、文化・文政期(1804〜1830)あるいは、それ以前の創始ではないかと言う説が提唱されています。

明治30年代を最盛期として数人の作者がおり、それぞれに特色のある人形を製作していましたが、
個々の作者については、名古屋が第二次大戦の際の空襲により壊滅的な打撃を受けたこともあり、
資料の発掘が極めて難しい現在となっては、その詳細は不明となっています。

なお、野田 末成の子息で最後の製作者の野田末吉氏が平成元年に他界し、名古屋土人形は廃絶しましたが、
これ以外に、山田家による人形も制作され、こちらは地名から「栄国寺人形」とも呼ばれていましたが
戦時中には製作が中止され廃絶しました。

犬山土人形(廃絶:愛知県 犬山市)
男雛
15cm 明治初期
※底面に「明治五年四月」の墨書あり
武者
17.5cm 明治前期
※背面に「明治十三年」の墨書あり

御高祖頭巾
27.2cm 明治中期

立ち娘
26.1cm 明治中期
武者
19.8cm 明治中期
大黒
16.9cm 明治中期

安倍貞任(【奥州安達原】より)
25.8cm 明治中期

太鼓打ち唐子
12.3cm 明治後期〜大正期
  梶原源太(【ひらかな盛衰記】より)※1
24.4cm 明治末期〜大正期
作:前刀 鍵蔵
※衣装の模様から推定

秀吉と三法師
32.5cm 明治末期〜大正期
作:美濃島 鈴太郎
※三法師の衣装の模様から推定

八重垣姫(【本朝廿四孝】より)
26.2cm 大正期
※背面に「大正十二年」の墨書あり
作:梶田屋(佐藤家)
   
【※1】この人形に関しましては、作品名を【梶原源太】としていますが、袖の紋が「花菱」となっているため、
厳密には【梶原源太】とは言えないのですが、これ以前に製作された、他の作者による同型の人形に関しては、
いずれも袖の紋が正式な「並び矢羽根紋」となっていますので、便宜上、この名称にしています。ご了承下さい。
江戸中期から末期にかけての創始とされています。
明治中期から後半にかけてが最盛期であり、十数名もの作者がいましたが、大正の末頃に廃絶しました。
薄手の土で軽く焼き上げられている事と、朱色や緑青といった淡彩での色付けが最大の特徴です。

なお、犬山は明治33年(1900年)に施行された「有毒色素取締法」以降になると
彩色後にニス掛けをするようになり、作者によっては彩色も暗くなる傾向が見られるようですが、
掲載の人形の内、「男雛」や「御高祖頭巾」「武者」「立ち娘」「大黒」にはニスが掛けられていないため、
少なくとも明治中期以前のものと思われます。

また、ニスの掛けられている「太鼓打ち唐子」のよだれ掛けの部分に「かじ町」という文字が彩色されている事から
この作品は、明治後期から大正期にかけて、鍛冶屋町で製作をしていた作者のものと思われますが、自分の場合、
犬山土人形に関しては、なにぶん実見した人形の数が少ないので、作者を特定する事は難しいです。(;
´Д`)
大口土人形(廃絶:愛知県 丹羽郡)
鯛乗り恵比須
17.8cm 明治中期
静御前
23.1cm 明治後期
大口町において、大塚吉助、増太郎、真一の三代にわたって製作された人形です。

正確な創始の時期等は不明ですが、初代:吉助の生年が天保5年(1834年)であることと、
同じく初代の作品が、彩色において犬山土人形のニス塗りでない明治中期以前ものと良く似ているため、
江戸末期から明治初期にかけて犬山土人形の影響を受けて創始されたのではないかと推定されています。

なお、掲載の「静御前」は、ニス塗りであることも含めて、当初は明治後期以降の犬山土人形かと思いましたが、
犬山に比べて手取りが重たい事などから大口であると断定しました。(土が白いので犬山の可能性もありますが…)
また、衣装に見られる桜崩しの模様や、彩色の雰囲気から2代目の増太郎のものではないかと思われます。
扶桑土人形(廃絶:愛知県 丹羽郡)
神楽
24.5cm 明治後期〜大正期
※背面に【犬山焼雛組合】のラベルあり
三河の大浜で人形作りの修行をした近藤 茂三郎が、明治30年頃から地元の扶桑町で製作を始めました。
茂三郎の没後は息子である学寿が後を継ぎましたが、昭和2〜3年頃に人形作りを廃業したため廃絶しました。

犬山土人形をはじめとする淡い色彩が主の近隣の人形の中にあって、三河タイプの濃厚な彩色が目を引きます。
また、人形の型については、修行先の大浜のものを修正した上で使用したものが多く見られるようです。

ただし、現在確認されている人形の中には、背面に明治33年(1900年)の「有毒色素取締法」に基づく
【犬山焼雛組合:着色検査之證】と印刷されているラベルが貼られているものがあり、この事により、当時は
扶桑土人形も、犬山土人形のグループとして認識・販売されていた事が分かります。

なお、当初は大浜から原料となる土(赤色)を運んでいましたが、運送上のコストの問題から
後に地元産の土(白色)に切り替えたとされています。
尾北地方の土人形(廃絶:愛知県 丹羽郡周辺)

太閤
22.7cm 明治中期頃?

犬山市を中心とする、丹羽郡一帯、いわゆる尾北地方には、大口土人形、久保一色土人形、浅井土人形といった
犬山土人形と似通った作風を持った土人形が分布していましたが、現在は そのいずれもが廃絶しています。

さて、掲載の土人形ですが、一見しますと彩色の配色からして犬山土人形のように見えますが、
白色で焼き上がりの軽い犬山とは違い、赤い土色である事と、底が丸々抜いてある肉厚で重い仕上がりですので
この点においては明らかに異なります。また、重量や厚みの点から判断した場合は久保一色人形では無く、
土色から判断した場合は大口や浅井とも違うといった結果になりました。

こうなりますと、消去法で考えて江南市の島宮土人形ではなかろうかという可能性が出てくるのですが
あいにくのところ、自分は実物を(写真も含めて)見た事が無いので断定しようにもどうしようも出来ません。
もしも、ここをご覧のお方で詳細をご存知のお方がおいででしたらば、何卒ご教示下さいませ。m(_ _)m
起土人形(愛知県 一宮市)

虎乗り清正
16.8cm 明治末期頃

子連れ
24.2cm 明治末期〜大正期

八重垣姫(【本朝廿四孝】より)
24.3cm 明治末期〜大正期
   
初代の中島佐右衛門が、天保年間(1830〜44年)に名古屋の枇杷島において、
また一説には、明治初年に同じく名古屋の御器所七本松で製作技術を習得した後、
旧・中島郡の起(おこし)町において製作を始めたと伝えられています。

金や銀をふんだんに使い、下地や肌の部分に使用する胡粉には雲母(うんも)を使った派手な色彩と、
製作された当時における運送上の便宜を図るために考えられたとされる、人形の前後の厚みが割合に扁平で、
レリーフ状に作られたものが多い事が挙げられます。

また、犬山や棚尾の影響を受けたためと言われていますが、歌舞伎の外題物が多い事も特徴です。

なお、平成16年に、5代目であった一夫氏が他界された後、
現在は奥様である一子(かずこ)さんが製作を続けられています。
棚尾土人形(廃絶:愛知県 碧南市)

武智 十次郎(【絵本太功記】より)
28.2cm 明治後期
作:岡本 開太郎
※背面に「中十」の陰刻あり

汐汲み
31.4cm 明治末期〜大正期
※背面に「中十」の陰刻あり
子守り
24.6cm 明治末期〜大正期
作:杉浦 松太郎
※面相描きと描彩の濃度から推定
太閤
34.6cm 昭和初期
作:鈴木 初太郎
※背面に「棚尾 鈴木製」の陽刻あり
地方歌舞伎の俳優として三河地方を巡業していた棚尾在住の石川 久八(嘉永3年:1850年生)が、
雛人形などが主体であった従来の節句向けの人形に、歌舞伎物の人形を加える事を思い立ち、
役者としての自身の知識をふんだんに取り入れた歌舞伎人形を創始したのが始まりとされています。

元来、三州瓦の生産地であったこの地域には、鬼瓦をはじめとして屋根の上に装飾として載せる瓦人形を作る、
鬼板師(おにいたし)と呼ばれる職人が多く、それらの職人の手によって多くの人形の原型が生み出され、
また、農村歌舞伎の盛んであった三河地方の芝居に対する人気を背景として、
全国でも類を見ないほどの、大型で豪華絢爛な節句人形が次々と生み出されていきました。

その後、棚尾では鈴木市太郎をはじめ、十数名もの作者が人形を製作していましたが、
昭和36年、最後の作者であった鈴木 初太郎(市太郎子息)の死去により、棚尾の土人形は廃絶しました。

なお、掲載の「武智 十次郎」「汐汲み」の人形には背面に「中十」というヘラ書きがあることから、
棚尾の中でも、早い時期(明治42年頃)に廃業した、岡本 重太郎・開太郎 親子の作品であると思われますが、
「三河土人形」に掲載されている他の人形と比較した場合、「汐汲み」に関しては「中十」の特徴である、
髪の生え際や眉の下地に施す薄墨が見られない事や、面相の書き方などに対しても相違点が見られますので、
恐らくは、「中十」の廃業後に、他の作者が譲渡された人形の型を利用して製作をしたものと推定されます。
旭土人形(愛知県 碧南市)

座り童子
21.4cm 明治末期〜大正期
作:高山 市太郎
※眉の形状と腹掛けの模様から推定

晒三番叟(?)(歌舞伎舞踊より)
27.7cm 大正〜昭和初期
作:高山 市太郎

政岡と鶴喜代
(【伽羅先代萩】より)
31.4cm 明治末期
作:岩間 房太郎
※背面に扇と菊花の刻印あり


平 敦盛
20.7cm 明治末期
作:岩間 房太郎
※背面に「平七」「雛房」と
菊花の刻印あり

子守り
24.5cm 明治末期〜大正期
作:高橋 徳太郎
※帯の模様から推定

鯱乗り童子
23.5cm 明治末期

浦島太郎
26.4cm 明治末期〜大正期

舞い姿
30.8cm 明治末期〜大正期
現在は合併により碧南市になった旧 旭村で、明治24年(1891年)、豊橋で土人形を製作していた
杉浦幸次郎に師事していた高山 市太郎が、独立後に旭村に窯を築き製作を始めたのが始まりです。

戦後は転業により製作を中断されていた八郎氏(市太郎の四男)が、近年になり製作を再開され
新作の製作も含め、大変なご高齢にもかかわらず、精力的な活動をされておられます。

同じ三河の土人形の中では、棚尾の土人形に比べて、赤や緑の色調が鮮やかで明るい事が特徴です。
また、作者のほとんどが旭村の大字 平七に居住していた事から、別名を平七土人形とも呼ばれます。

なお、上記の杉浦家以外にも弟子である高橋 徳太郎や、徳太郎に師事した杉浦 惣三郎や岩間 房太郎がおり、
中には、居住地は棚尾でありながら旭系統の人形を作った小沢 銀二郎や小笠原 秀雄といった作者もいました。
大浜土人形(愛知県 碧南市)

楠木正成
34.4cm 明治末期〜大正期
作:美濃部 泰作

曽我十郎(【寿曽我対面】より)
31.5cm 大正〜昭和初期
作:美濃部 泰作
※背面に「大濱町」「泰作」の刻印あり

唐獅子童子
30.1cm 明治末期〜大正期
作:禰宜田 佐太郎
※背面に「佐」の刻印あり

大黒
22.7cm 明治末期〜大正期
作:禰宜田 佐太郎
神楽
22.3cm 昭和初期
※背面に昭和12年の墨書あり
作:禰宜田 佐太郎

弁慶(【勧進帳】より)
30.8cm 明治末期
作:榊原 庄松

手燭持ち禿(かむろ)
30.2cm 大正〜昭和初期
作:杉浦 亀太郎
   
明治25〜6年(1892〜93年)頃、碧南市南部の大浜町で、
美濃部 泰作の弟である四市が土人形作りを開始しました。

のちに四市は日露戦争に於いて戦死したため、兄の泰作が人形作りを受け継ぎ、
昭和5〜6年(1930〜31年)あたりまで製作を続けました。

また、これとは別に、明治29年(1896年)に同じく大浜町の禰宜田(ねぎた)佐太郎が独力で開業をし、
昭和31年に佐太郎が死去した後は、一時中断した時期もあったものの、子息の章(あきら)氏が製作を引き継ぎ
精力的に土人形を製作されていましたが、平成に入り、自宅の改築を機に製作を中止され、一旦は途絶えました。
そして、平成14年に章氏が亡くなられた後に、章氏の次男の徹(とおる)氏が再び製作を開始し、
現在に至っています。

その他の作者には、禰宜田家の親戚筋にあたる榊原 庄松がおり、早くから土人形を製作していました。
兄の勧めで大正9年(1920年)に歯科医師となった後は、本業としての土人形作りは中止したものの、
その後も人に頼まれれば快く作るなどしていたとの事なので、製作自体はかなり後々までしていたようです。

大浜の人形は、三河では他の産地に比べ鮮明な色彩が特徴です。また、特に組み物や大型の物を得意とし、
なかでも高さ50センチ余りの超大型の人形である賤ヶ岳の合戦における加藤清正と山路将監の一対の人形は、
特によく知られたものの一つです。

なお、杉浦亀太郎は旭に居住していましたが、もともと禰宜田家で人形作りの手伝いをしていた事や、
禰宜田 佐太郎との姻戚関係の事もありますので、鈴木良典氏の説にのっとり、大浜として分類しています。
西尾土人形(廃絶:愛知県 西尾市)

大黒
27.1cm 明治後期頃


恵比須
23.9cm 明治後期頃

牛若丸
20.8cm 明治後期〜末期
   
芝居に使うカツラの製作をする「鬘師」であった鈴木三四郎が、
明治23年(1890年)、分家をして西尾市に移住後に作り始めました。

人形の特徴ですが、製作を始めた当初は淡彩の作品だったものの、
次第に渋く濃い色彩となり、晩年には光沢の強い、リアルタイプの人形へと変化しました。

また、三四郎の弟子には、修行を終えた後に、新川土人形を製作した亀島 初太郎と
同じく、三四郎の元で修業した後に、矢作土人形の作者となった都築 弥太郎がおり、
そして初太郎の元で修業した後、独立して三四郎の隣家で土人形を製作した、孫弟子にあたる石川 譲松がいます。

なお、「恵比須」「大黒」に関しては、人形の底部に開けられた穴の形状が、一般的な三河の人形に特有の
底面の輪郭に沿って開けられた大きな穴と違い、西尾土人形の特徴とされる、小さい丸穴であることと、
三四郎の人形に特有の、髪の生え際の下地に薄墨が入っている事との2点から西尾のものと判断しました。
豊橋土人形(廃絶:愛知県 豊橋市)


舞い娘
26.4cm 明治後期
※底面に明治32年の墨書あり
作:吉田 孫吉
旅役者として流転の生活を送っていた杉浦 幸次郎が、老境に入り安住の地を求めた後、
明治20年(1887年)ごろ、豊橋町(当時)に窯を築き、かつて叔父(※)の下で覚えた
土人形の技術を生かして製作を始めた事が豊橋土人形の創始とされています。

※幸次郎は、乙川土人形の初代である杉浦伊左ヱ門、もしくは2代目の佐与八の甥とされています。

明治31年(1898年)に幸次郎が亡くなると、弟子であった吉田 孫吉が2代目として後を継ぎ、
意欲的に多くの新作を発表したため、豊橋土人形の名声は高まり、評判を博しました。

しかし、孫吉には男子がなかったため、婿養子の作平を迎え3代目としましたが、
衣装雛の流行による土人形の売れ行き不振などの問題があり、昭和10年頃には廃業しました。

なお、孫吉の弟子には、土人形作りに対しての意見の相違などから昭和2年に独立した西村 茂治と、
大正12年(1923年)に独立して「国府(こう)土人形」を始めた藤井 末吉がいますが、この系統とは別に、
明治37年(1904年)頃より棚尾で土人形を製作していた小沢 辰次郎が家庭の事情で豊橋に移転後、
昭和10年頃まで、50センチ余りもある大型の人形などを作っていました。
乙川土人形(愛知県 半田市)

太鼓持ち童子
14.5cm 明治後期〜大正期

子守り
14.5cm 大正期


平 敦盛
20.7cm 大正〜昭和初期
   
江戸時代、飛脚を生業としていた杉浦 伊左衛門が、京の伏見人形に目を付け、
これを持ち帰り模作などをした後、文化・文政(1804〜30)頃より製作を始めたとされています。

中部地方における土人形の中では、最も早い時期の創始とされており、
東海地方をはじめとする各地の土人形に直接・間接に大きな影響を与えました。

なお、1959年の伊勢湾台風の折の浸水により人形の型が使用できなくなり、一時は存続が危ぶまれましたが
その後、新たに型を起こし、現在は、六代目の杉浦 実 氏が製作をされています。
市原(瑞浪)土人形(岐阜県 瑞浪市)
二股大根抱き大黒
20.8cm 明治後期
※背面に明治38年購入の墨書あり

耶魔姫(【阿古義物語】より)
26.3cm 明治末期

養老の孝子
26.4cm 明治末期〜大正期?
鬼若丸
26.5cm 大正期
かつての地名が土岐郡 土岐村 市原であったので市原土人形と呼びますが、
現在は瑞浪市へと変わったので、別に瑞浪土人形とも呼びます。

明治20年(1887年)頃に、当地で瓦職人をしていた杉浦 伊助が最も早く製作を始め、
それに続いて犬山から土人形を仕入れて当地で販売していた伊藤 只吉が伊助の開業に刺激され、
明治28年(1895年)、犬山から土人形職人を招き、その娘の てる に製法を学ばせました。

その後、市原では土人形作りが盛んになり、最盛期には村内の戸数70の内、50戸あまりまでが
土人形の製作に関係した仕事に就いていましたが、第2次大戦を境にほとんどの作者が廃業し、
当代においては後藤 久美 氏が伝承されていましたが、近年になり製作を中止され、
装飾陶器の絵付けの副業に製作していた高木 敏夫氏が、ただ一人、現在専業として人形を製作されています。
広見土人形(廃絶:岐阜県 可児市)
舞い姿
28.2cm 大正期
※底面に大正9年の墨書あり
政岡と鶴喜代(【伽羅先代萩】より)
24.2cm 大正末期〜昭和初期
明治末期ごろより、犬山土人形の技術を学んだとされる高田 伊兵衛によって作られていた土人形です。
後を継いだ息子の覚太郎と二代にわたって製作されましたが、覚太郎の死去により廃絶しました。

なお、伊兵衛の時は二枚型を使った手押しによる製法でしたが、覚太郎の代になってからは、
石膏型を使った流し込みによる方法へと切り替わりました。(※掲載の人形は手押しによる伊兵衛の作品です。)
姫土人形(廃絶:岐阜県 可児市)


静御前(【義経千本桜】より)
22.0cm 昭和初期
広見土人形の作者である高田家で修行した渡辺一夫が、昭和10年頃に独立して製作を始めました。
太平洋戦争を挟み、戦後も製作を続けましたが、昭和56年に死去したため廃絶しました。

広見に比べて美麗な色彩が特徴で、2代目の覚太郎が行っていた石膏型による流し込みの技法を踏襲し、
昭和30年代以降はニス塗りをやめて光沢の無い作風へと変わりました。

 

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