土人形

 

信越・北陸地方

村上(大浜)土人形(新潟県 岩船郡)

加藤清正
25.8cm 明治後期〜大正期

桃太郎
18.4cm 明治後期〜大正期

座り娘
14.7cm 明治後期〜大正期

   
村上地方で製作されていたことから「村上土人形」と呼ばれていますが、
それとは別に、作者の名前を取って「大浜土人形」とも言います。

江戸時代末期、現在の愛知県の大浜から移住した瓦職人の源七が村上藩の御用を務めるうち、
その後を追って村上に来た甥の善四郎が、源七の後を継いだ後に、瓦焼きのかたわら始めたとされています。

その後、子息の善吉から末弟の末吉へと受け継がれ、現在は末吉の子息の平吉の奥様である
大浜カウさんが細々と人形作りを続けておられますが、ご高齢のため、どうやら中絶状態という話だそうです。

本家である大浜の人形そのものとの共通する型が見受けられないようなので関連性は薄いと考えられますが、
八幡土人形などの佐渡を除く新潟県内の土人形の中においては、中型〜大型のものが比較的多い事と、
中間色を多用した、明度の高い彩色が特徴です。

なお、戦後になってからは、恐らく型が磨り減ったからではないかと思われますが、
ディティールの細かい凹凸が無くなり、全体的に丸みを帯びた形へと変化しています。
三条土人形(廃絶:新潟県 三条市)

座り娘
7.6cm 明治中〜後期

見立て大黒 童子
10.2cm 明治後期〜大正初期
明治初期に創始されたと推定されています。
小林三六をはじめとして数名の作者がいましたが、大正時代に入り、廃絶に至りました。

なお、廃絶に至った理由のひとつに、作者達が居住していた地域に鉄道(現在のJR弥彦線)が
開通する事になり、線路の建設のため立ち退きを余儀なくされた事が挙げられます。

全体的に小物の人形が多く、黒を基調としつつも、その上に施された
赤、黄、緑、ピンクといったカラフルな彩色と、糸の様に細い一筆書きの眼が特徴です。
今町土人形(廃絶:新潟県 見附市)

立娘
cm 明治中〜後期

座り軍人
13.7cm 明治中〜後期

鳥持ち唐子
12.5cm 明治後期〜大正期

達磨
12.3cm 明治中〜後期
橋本吉六により、明治初期頃より作り始められたと推定されています。
その後、四代目の二七の代になり製作を中止し、二七が長岡へと移住したため、昭和の初期頃に廃絶しました。

なお、同時期に製作されていた、隣接する三条の土人形と非常に良く似た彩色をしていますが、
三条が彩色に金泥や金砂を使うのに対して今町はそれらを使わず、銀泥のみを使用する事と、
眼の描き方(一筆描きの眼の高さの位置や、間隔など)の相違点が判別のポイントになっています。
栃尾土人形(廃絶:新潟県 栃尾市)

おぼこ
7.4cm 明治初期〜中期

長い間、産地不詳の人形とされてきましたが、近年になり、日本郷土人形研究会の調査により、
現在の栃尾市の栃堀集落において、主に当時の北前舟ルートによってもたらされた伏見人形から
取った抜き型を使用して、江戸末期から明治中期頃にかけて作られていたらしいという事が判明しました。
※一部の人形においては柏崎土人形から型抜きをした物も確認されています。

特徴としては、確認されている人形の内、大半のものが小型である事と、人形の前面だけを型抜きした上で
背面は著しく扁平、もしくは自立できる程度の盛り上がりを付けている、低い温度による焼成から来る脆さを
カバーするためか人形の首の部分に竹串を差し込んで成形する、目の上の部分に薄い桃色で色差しをする、
などが挙げられます。
八幡土人形(廃絶:新潟県 佐渡市)

おぼこ
20.2cm 明治中期

ウチコミ人形 唐子
9.4cm 明治期
江戸時代の後期、村岡多平(1799〜1882)により、伏見人形に倣って製作されたのが始まりです。
昭和初期、6代目の本間辰次郎の代になり、道路拡張により人形を焼く窯を取り壊したことに伴い、
制作が中止され、廃絶に至りました。

全体的な傾向としては、当時 北前舟で運ばれた伏見人形や長浜人形(島根県)からの影響が強く見受けられ
それらの人形から直接に型取りをしたものがあります。

また、八幡人形独特のものとしては「ウチコミ」と呼ばれる、菓子型職人の手によると思われる
片面のみの、もしくは小さい土型・木型を使用して抜いた、扁平な作りの人形が挙げられますが、
形状から来る制約上、大型の物では立ちにくいため、ほとんどの物が10センチ前後の小型の物です。
富山土人形(廃絶:富山県 富山市)

神功皇后
18.8cm 明治後期〜大正期

江戸末期の嘉永2年(1849年)頃、当時の富山藩の御用窯である「丸山焼」の陶工として働いていた
広瀬秀信が、藩主の前田利保の命により、城内の千歳御殿において楽焼と共に土人形を製作した事が
始まりとされています。

明治に入ると、秀信の長男である安次郎が中心となり、旧士族十数名を人形作りの同業者として育成し、
20年代から30年代にかけては、安次郎をはじめ、これらの士族上がりの職人によって大量に生産され、
日清・日露戦争の戦勝による好景気に支えられた事もあり、活況を呈しました。

しかし、大正時代に入り、県下全域にわたる不景気や、ブリキ・セルロイドといった素材を使用した
新式玩具に押されて売れ行きは低下し、また、不安定な職業に対しての不満を持った後継者達が
人形作りを継ぐ事を敬遠するようになり、生産者の数が徐々に減っていった事に加え、戦災により
残っていた殆どの製作者宅が被災したため、土人形作りは、この時点で壊滅的な打撃を受けました。

そして、戦後は渡辺 信秀 氏ただ一人が製作を続けられていましたが、高齢のため平成9年に廃業の後、
15年に死去され、後継者が居なかったため、ここに富山土人形は廃絶しました。

※現在は、富山市役所の肝煎りによって結成された「伝承会」による土人形作りがなされていますが、
従来の富山土人形の作風とは異なる、今風の物との事なので、事実上の廃絶と言っても良いと思われます。

なお、人形の特徴としては深紅色と鮮やかな紫色の2色を大胆に使った、鮮やかな色彩が目に付きますが、
顔料に混ぜられている膠(にかわ)の量が多すぎるためか、彩色が剥落しやすい事が挙げられます。
金沢土人形(廃絶:石川県 金沢市)

衛士馬曳き
6.1cm 大正〜昭和初期

幕末から昭和初期にかけて、加賀百万石の城下町である金沢で製作された土人形です。
10センチ未満の小型のものが主で、あか抜けした上品な作風が特徴です。

また、特殊な用途を持った人形として、裃・振袖姿に作られた男女一対の人形などが挙げられますが、
かつては、これを疱瘡除けとして病児の枕元に置いて祀ったのちに桟俵(さんだわら)に乗せて川に流したり、
便所を新築した際に、「厠の神」として、その底に埋めるといった風習がありました。
武生土人形(廃絶:福井県 武生市)

扇持ち娘
31.7cm 昭和初期

三国土人形を創始した新保屋 久右衛門の次男である新保 佐治平が、
生業であった鋳物の仕事がし辛い、冬季の副業として明治26年(1893年)に始めました。

その後、佐治平が大正の初年に死去すると、人形の土型は、大正9年には佐治平の次男である久治郎から
平野 秀太郎に譲渡され昭和初期まで製作が続けられましたが、それもいつしか中止となり、廃絶に至りました。

特徴としては、元来が三国土人形から分かれたため、三国土人形と良く似た点が多い事と、
その三国土人形が伏見人形に学んで作られた事から、伏見人形に類似した型が多い事が挙げられます。

また、天神信仰が盛んな土地柄だったために、多種類の天神人形が作られましたが、なかでも、
仏師などが製作した木型を原型とした、彫りの深い独特の風格を持った大型の天神人形が有名です。

 

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