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月岡芳年
「山崎大戦之図」
慶応元〜2年(1865〜66年)頃
大判三枚続き |
本能寺の変の後、羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いを描いた作品です。
ただし、この作品が版行された時点では、未だに幕府の禁令に対する
警戒が強かったと思われ、人物名の表記は仮名・当て字等になっています。
なお、画中の主な人物の表記の補足は下記の通りです。
・武智道秀 → 明智光秀
・斎堂蔵之助 利一 → 斎藤利三
・長川瀬平清秀 → 中川清秀
・佐藤作内 吉明→加藤嘉明 |
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月岡芳年
「仏蘭西英吉利西三兵大調練之図」
慶応3年(1867年)
大判三枚続き |
幕末、諸外国との通商修好条約を締結の後、外国人の居留地である横浜には、
居留民の保護という名目で各国の軍隊が上陸、駐屯をしました。
この作品は、それを踏まえて、フランスとイギリスの三兵(歩兵・砲兵・騎兵を指す)が、
合同演習を行うというイメージで描かれた作品ですが、実際にあった事象ではありません。 |
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月岡芳年
「豊臣昇進録」
明治元年(1868年)
大判三枚続き |
山崎の戦いに付随して語られる、いわゆる「洞ヶ峠の戦い」において、
筒井順慶の配下の島左近が、明智方の斎藤利次と一騎打ちして、
これを討ち取るという場面を描いたものです。
ただし、史実においては順慶は居城の大和・郡山城において善後策を協議していたため
実際には洞ヶ峠には出陣しておらず、逆に洞ヶ峠まで出張ったのは光秀の方であり、
このエピソードは架空のものという事になります。 |
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歌川芳形
「太平記虎御前山」
安政6年〜元治元年(1859〜1864年)頃
大判三枚続き |
内容そのものは、当時、荒木村重の家臣であった中川清秀(画中では赤川清秀)が、
織田信長に属していた和田惟政を討ち取った「白井河原の戦い」を描いています。
しかし、題名に「虎御前山」とあるため、実際の虎御前山がある「近江における戦い」から
賤ヶ岳の戦い想起させ、これにより、清秀が柴田勝家方の猛将、佐久間盛政によって
討たれた場面を描いたものではないかという推測も成り立つと考えられます。 |